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![]() 「 心 の 目 」 |
| 北海道千歳市 神出杉雄さんのエッセイ |
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<自分の目の中の他人の目>ひとりぼんやりと歩道に立って、路上を行き交う人や車を見る。何か見たいものが目につくとそれを見る。それは誰とも関係なく自分の見たいものを見ているように思っていた。しかしその「見たい」という根元に、誰かのために見ているのだということ、しかもほとんどすべての場合がそうだということを、私の場合は認めなければならなかった。 (写真・美男葛<ビナンカズラ>) 例えば向かいの店の看板が変わった、奇妙なフリースタイルで歩いている若者がいる、ニセコの方から来た観光バスが通り過ぎていったなど。それぞれ何ほどかの関心を惹き、面白いなと感じるものもある。しかし必ずしもそれは純粋に自分の目で面白いのでもなく興味があったのでもない。それを支えているものがある。それは自分を取り巻いている人々の目であったり、自分とかかわりを持つ人の目であったりする。今日こんなものを見たよ、こんなことがあったよ、と家に帰ったら話して聞かせたい妻、お前どう思う?と同意を求めるための友達、関心を持って聞いてくれるだろうなと思うグループの仲間たち、今度のスピーチでこれをテーマにしようと思って想定する聴衆、これを取り上げてこういうふうに書いたらどう感じてくれるかという想像上の読者など、いろいろな目が自分の心の奥底に潜んでいる。家族もなく友人も知人もない孤独な生活をしていて、それでも新聞記事やテレビに気を惹かれるものがあるとすれば、今後自分が人並みの場所に出た場合を想定しているか、過去にそういう環境にいた時の残作用があるかどちらかだ。人中に出たときの自分が、人並みの知識を持っていなければならないという意識だとでも言えようか。 人里離れた山奥で仙人のような生活を一生送る予定だったら、心の底の他人の目はほとんどなくなるだろう。しかしそれでも何らかの関心を持って周囲の光景を眺めているだろう。そのとき、その眺めている目は純粋に自分の目だろうか。 |
<ものを言わないのはわしばかりだ>自分の目が、純粋に自分の目であるかどうかよく分からないが、他人を見るときの自分の目もまた、なかなか分かりにくい。かと思うと、ついうっかり、トリックにはまってしまうこともある。 小学校のころ、国語の時間に「無言の行」というのを習ったことがある。 あるところで四人の僧が座禅を組んで「無言の行」をやっていた。その時、一人の僧が「無言戒」を破って、言葉を発した。「無言の行にものを言うやつがあるか」と、別の僧がそれをたしなめる。それを聞いて三番目の僧が「あなた方はとんでもない人たちだ」と二人を批判する。それを見て、最後に四人目の僧が、勝ち誇ったように言う。 「ものを言わないのはわしばかりだ」と。 ところで最近、毎日新聞の投書欄に、次のような文章があった。 『人間は得てして自分の考えで、人の人生や行動を批判したがるものである。 例えば「あんな年になってどうしてあんなに働きたがるの。もっと人生を楽しめばいいのに。あの世まで金は持っていかれないんだから」 「あの人はなぜあんなに地位や名誉にこだわるの。無冠の人の中にこそ心から尊敬されるべき価値を持った人がいるのではないか」……。 しかしよく考えてみると、そのような批判は相手に対してまことに失礼千万だ。その人にはその人なりの人生観や生き方があるのだからだ。他人がとやかく批評して茶飲み話にすることではないといつも思う。 自分もそうであるように人にもそれぞれの考え方、生き方があるはずだ。互いに個性を認め合うことから豊かな人生が始まるのではないか。おおらかな心で人生を過ごしたいものである。』 私はこれを読んで、この投書子は、「人間は人の人生や行動を批判したがるが、もっとおおらかに人生を過ごしたいものだ」と言いながら、そう言っていること自体が他人の言動の批判になっていることを、ご自身、気がついていないのではないか。他人の考えることや言うことに批判的な気持ちがある限り、それがその人自身が言うところの「おおらかさ」の限界となっている……と考えて、先に挙げた「無言の行」の話を思い出した。 こうして私は、他人の文章を読んでフト感じたところをそのまま述べたわけだが、しかし、それを述べるということは、実はそう述べている私自身が、「ものを言わないのはわしばかりだ」と言った四人目の僧と同じ役割を果たしていることになっているではないか。私は矛盾を犯す最後の人である。そうでなければ、この文章そのものが成り立たない。 そういうわけだから、その矛盾に気付いた人は誰もこの私の文章を批判できないはずだ。 ……という、手前勝手な論理的結末でこの文を締めくくる次第で…… お釈迦さんは、「八正道」の第一番目に「正見」というのを挙げられましたが、ともあれ、自分の心を正しく見るというのは、なかなか難しいものですね。 |
(自費出版図書館同人誌「黎明」より転載)1月は木村隆一シリーズ連続4本。その第1回は1/5「夢語」をお送りする予定です。(富士の写真は神奈川県横浜市青葉区 宮田靖匡氏 撮影) |
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