(3月号)




〔青春は朽ち果てるとも友情は残照に輝く〕
<文字を大きくしてお読みになるには>Internet Explorer の場合メニューバーの[表示]から[文字のサイズ]→[最大]を選んでください。
 

 二月、暦の春を迎えて間もない日、先輩の訃報に接した。半世紀に手の届く日々、公私にわたりお世話になった。

 通夜は中座する者少なく、尽きない名残に酒を酌み交わし、思い出を語り時に涙した。告別式に読経も焼香も戒名もなく、故人の遺志でラデツキー行進曲が奏でられ、チューリップとスイートピーで祭壇を春の色に満たした。

 75歳の生涯は短すぎた。そのことを惜しみながら、二人の友が弔辞を読んだ。一人は旧制の名門都立中学から机を共にし、また野球部でバッテリーを組んだという。大学でも同窓に学び、まさに青春の日々を分かち合った間柄だった。

(上写真:田沢高原)

 もう一人は昭和二十年代、故人の姉の嫁ぎ先である、さる高名な漢学者の家に起居して学生時代を過ごしたという。東京も住家にこと欠く時代だった。そこで故人も受験勉強に励んだが、二人の若者は勉学のみならず人間としての知性、教養を学者の家庭で学びながら生涯の友情を培ったことを、弔辞は鮮やかに述べた。

 故人は新聞記者として東京オリンピックにかかわり、アテネから国産機YS−11で東京へ運ばれる聖火に同行した。ベトナム戦争にも従軍したが、酔いが回れば東京オリンピックの記憶にひたり、それが家であれば開会式から入場行進に到る実況の録音を繰り返し聴き、ラデツキー行進曲が鳴り始めると、手元の箸を指揮棒のように振った。

(右写真:紅梅)

 友とはいかなる関係を指すのか、生涯に友と呼べる人間を何人、持つことが出来るのか。弔辞に耳を傾けながら、そんなことを考えていた。命あるものはいつか滅び、友情という名のもとに共有した時間にも終止符が打たれるが、思い出は残り続ける。思い出がある限り、故人との関係も濃密であり続ける。

 思えば故人が過ごした日々は、新聞記者にとって極上の時代だったのかも知れない。有楽町駅前と数寄屋橋のたもと、そして銀座三丁目の三角地点に毎日、朝日、読売新聞の社屋があり、眼前に川が流れていた。円形の日劇が娯楽の殿堂としてあたりを睥睨し、地下の食堂街に行けば、ダンシングチームやミュージックホールの踊り子たちが空腹を満たし終えると、化粧にいそしんでいた。有楽町の駅前はまだ闇市の風景を残し、飲み屋や喫茶店でライバル紙の記者同士が鉢合わせすることも常だった。

 数寄屋橋を起点に16番線の都電が池袋へ、新宿や渋谷、築地、晴海方面へも軌道が往来していたのが昭和30年代である。京橋川、築地川、三十三間堀と水辺にもことかかなかった。暮れると新橋演舞場の提灯の灯かりが水面に揺れた。地下鉄は渋谷―浅草の銀座線だけ。夏の地下駅は涼風が人心地を促した。

 銀座の街区も中央通りと東西に分けて呼ばれ、四丁目の服部時計店と松屋、三越、松坂屋のデパート、教文館などがビルらしいビル。店内にバルコニーがあった資生堂パーラーも昔のカフェの雰囲気を漂わせ、しもた屋風の街並みには柳が似合いもした。
(左写真:臘梅)

 オリンピックを控えた38年1月15日、五丁目の角に三愛ドリームセンターが屹立して風景を一変させた。背後に巨大な地球儀を模した森永の広告塔、さらに晴海通りを分けるように東レと帝人のいずれも工費4000万円のネオンが、繊維時代を謳歌していた。化粧品の資生堂とカネボウも絡み、果物の色とシャーベット・トーンで両社が張り合い、キャンペーンという言葉を消費者に教えた。昭和35年に始まった高度成長が、オリンピックを頂点にたわわに実り始めていた。

 ビュイックやフォードのアメリカ車に社旗をなびかせて走り回った新聞記者たち。だが威勢のいいのは足回りだけで、まだポケットベルすらなく、通信手段はボックス電話か赤電話頼み。取材現場では電話機を確保するのが真っ先の仕事。一言一句を受話器に吹き込んだ。ジェフリー・アーチャーの小説のなかで、水死体があがってポケットにクォーターが20枚以上見つかったらFBIと思えといったくだりがあった。細部に記憶違いがあるかも知れないが、常に連絡を要求される仕事柄、公衆電話に使う25セントの硬貨は必需品というわけで、携帯などない頃のわが日本の新聞記者もご同様だった。

 原稿用紙はA5版の半裁のザラ紙に5字6行か6字5行の殴り書き。1枚30字で書けば、当時15段組みの紙面で、1行15字に合わせて2行分というわけだ。新聞社特有のB芯の鉛筆で書いた。こうして書けば、短く分かりやすい文章の習練にもなるが、何よりも締め切り間際に飛び込んだ重大ニュースは、30字に書かれた原稿を1枚ずつ“子どもさん”とか“少年”と呼ばれるアルバイト君がデスクからひったくるようにして工場へ走った。これに整理が見出しをつけ植字、大組み、活版と回って大刷りと呼ばれるゲラがあがり、校正を経て輪転機がうなりをあげるのだった。
(右写真:みつまた)

 煙草吸いが大手を振っていた時代だ。灰皿には吸殻の山が珍しくない。うっかり子どもさんが工場から持ち帰った大刷りをその上に置こうものなら、くすぶってやがて炎となることさえあった。旧社屋の壁の黄色は地色ではなく煙草の脂の色だったことが、引越しのときになってわかった。食事もコーヒーも出前持ちが運んできた。だから夜が更けると、残飯を漁る巨大なネズミが編集局に出没した。エアコンなどあろうはずもない。夏の盛りには編集局内に氷柱を立て、ステテコ・ランニング姿も珍しくなかった。発送の男たちは、新聞が刷り上るまで道端に新聞紙を広げて寝転がるのが夏の夜の姿だった。

 締め切りに協定などないから、ぎりぎり午前4時まで朝刊の最終版はニュースを突っ込んだ。昭和38年11月23日早暁のチャイムの音を忘れない。最終版を終えて仮眠に入ろうとした時、大事件を速報する共同通信のチャイムが鳴った。この朝6時、ケネデイ米大統領の演説が人工衛星を通じて人類史上初めて宇宙中継されることになっていた。速報は大統領がダラスで凶弾に倒れたことを伝えた。いまも記憶に生々しい衝撃だった。

 コンピュータが活躍する現代と比べれば、極めて原始的な新聞作りと言われそうだが、きわめて人間的でもあった。原稿は今のようにキーをたたくのではなく、一字一字を鉛筆で書いた。現場からの送稿でなければ、彫心鏤骨の思いで文章を搾り出していたはずだ。

 朝日新聞の写真記者が、また記事盗用をやってしまった。山梨日日新聞の論説委員長までが、社説で他社の記事を盗用していた。毎日新聞の記者は取材内容を録音したICレコーダーを第三者に渡していた。こうした出来事に接するのはつらい。対岸の火事とするわけには行かない。明治から先人・先達が営々築きあげてきたジャーナリズムに傷がつくことの重大さは、個人や一社の問題ではない。ジャーナリズムに奉じる人間が言葉の重みを自覚していないことに驚くばかりだ。
(左写真:水ぬるむ)

 日本人は言葉に敏感な国民のはずだ。だからこそ柳沢伯夫厚生労働相の女性は《子どもを産む機械、装置》発言も問題になる。いかに日常のたたずまいが人格者であろうと、自称フェミニストであろうと、言葉を選ぶ資質を備えていなければ政治家として相応しくない。だが、いつまでも言葉尻をとらえて政局にしようとする野党も情けない。もっと大局的にやらなければならない仕事があるだろうに、批判することばかりに熱心な政党に、日本の政治の未来像は見えない。

 テレビがジャーナリズムにのっとっているとは思わないが、“あるある”のような番組がまかり通っていると言うのは深刻な状況だ。新聞の切抜きをめくっていたら、《テレビ東京 実験自体ねつ造 花粉症の治療効果 番組打ち切り》(2005年2月2日の朝日新聞朝刊)という記事が出てきた。関西テレビ事件とまったく同じ構造だ。番組は「教えて!ウルトラ実験隊」、制作会社は日本テレワーク。言うならば前科持ちの制作会社に、その前科で打ち切られたものと同工異曲の番組を作らせて全国に放送していたことになる。日本テレワークと関西テレビ、フジテレビは、どう申し開きするのか。
(右写真:2月堂)

 2月13日の朝刊に、人命にまつわるふたつの出来事が目を引いた。東京の東武東上線ときわ台駅で、線路に入った女性を助けようとして電車にはねられた警視庁板橋署常盤台交番の宮本邦彦巡査部長の53歳の死と、宮崎県都井岬東南東沖で衝突され沈没したマグロはえ縄漁船の3人無事救助のニュース。悔しさと安堵と、命の重さをしみじみ思った。

 14日、青森市の八甲田山系で発生した雪崩事故。この救助にオーストラリアのスキーパトロール連盟の救助隊員たちが活躍した。休暇でスキーにやって来て事故現場に出あった。「休暇とはいえ、ボランティアの『救助隊員』としていつでも対応できるよう、折りたたみ式スコップ、緊急用保温シート、ゾンデなどを携行していたことが役に立った」(読売)との記事に感銘した。ボランティア精神の真髄に触れた思いである。

 2月18日に3万人がひた走った第1回東京マラソンにも、多くのボランティアが活躍したという。走る者も走らなかった人も、手を携えて一日を楽しむゆとりが、傍観者の気持ちまで豊にしてくれる。生中継の平均視聴率(関東地区)が23・6%の高さだったことも、多くの人が日曜日の出来事を楽しんだ証左だ。《東京マラソン大迷惑》と得意の難癖をつけたタブロイド紙もあったが、他者の楽しみを共に楽しむことの出来ない貧しい心では、さぞや人生もつまらなかろう。

 都心に初雪が降らないまま二月が過ぎた。全国的に暖冬傾向が報じられている。いや欧州も例外ではない。だが細長い日本列島、それなりに季節感に落差はある。東北・岩手では雪に凍えた枝先に春遠く、東京では梅、蝋梅、ミツマタなどが春を告げる。3月、奈良東大寺では修二会、そしてお水取りが、一日から十四日まで催される。

 五穀豊穣、万民快楽は望むところ。今年の桜はかなり早そうだ。  (YOU)
(写真:筆者撮影)

 

<< バックナンバーを見る



<<<<<<<<<< genkigaderu.net >>>>>>>>>>
HOME