第87回( 7月号)東山の「寡婦村」 

文:田 端 克 敏  絵:田 端 道 子


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 アモイの南方、広東省との境界近くに東山というところがある。

 アモイ大学の学生にこの地の出身者が数人いて、あまりに空と海の青さを誇らしげに語るのでみんなで行こうということになった。

 東山はアモイに似た小さな島なのだが一本の橋によって大陸と結ばれている。経済特区に指定されたアモイと違って、今なお空と海の青さは際立っているという。

 貸切のバスで出発して4時間ほどで東山島に掛かる橋を通過する。島の中央部は一面の畑だが、今まで走り抜けてきた大陸の農村風景とは一味違っている。たしかに空気が澄んでいるし、たたずまいも日本の農村風景に似て優しいところがある。

道はやがて海沿いを辿り、ちょっとにぎやかな風情の村落の一角でバスが止まった。そこは今日、明日とお世話になる学生の実家の前であった。健康色に焼けた漁民の父親とその奥さんが満面の笑顔で出迎えてくれる。
 
 この村のなりわいは漁業なのだが、立ち並ぶ家が軒を連ね、そのほとんどが三階建て、四階建ての高さを競い、中には屋上に望楼を構えているところさえある。私はその威容に目を見張った。
(写真:東山島の風動石)


 昼食後、海辺の公園を散歩する。眼前の小高い丘の上に大きな岩が乗っていて、今にも転げ落ちそうなかたちで乗っている。「風動石」と名づけられたこの岩は、人が押せば確かに少し揺らぐのである。それでいて長い間この景観を保ち続けているという。
 
 その夜、私たちは一人娘のためにしつらえた16畳ほどもある勉強部屋兼寝室で寝た。最上階のその部屋からは海が見え、遠くに山が霞んだ。
 
 翌日は、漁船を出してもらい、近くの小島に上陸する。この島にはこれといった施設はない代わりに全島がトレッキングのコースみたいになっていて谷を抜け岩場を捩り、その都度空が見え海が光り様々な肢体の小島が望見された。
 
 翌日はちょっと不思議なところへ行った。
 
 看板には「寡婦村展覧館」と書かれている。「寡婦村」とは観光の見学地としてはちょっと味気ないネーミングではある。

私たちが今日はじめての客らしく、係りの老人がおもむろに鍵を開けてくれたが、私はそこに展示してある写真と模型、そしてその説明書きを見、学生たちの日本語訳を聞いているうちにこれはただ事ではない、という緊迫した気持ちに包まれていった。

この展覧館の主旨はこうである。
 
 時は1950年、国共内戦に敗れた国民党軍は追い詰められて南下し、この東山に立てこもった。そしてその一隊がここから小船を連ねて台湾に渡る。
 
 3年後体勢を立て直した国民党軍は、大陸奪還を目指して台湾から再び東山に上陸し共産党軍と激戦を繰り広げる。しかし共産党軍の防備は固く、国民党軍は千人を超える戦死者を出して惨敗する。
 
 またしても撤退という瀬戸際に、残余の国民党軍が東山島の銅鉢村になだれ込み、村の廟に若い男だけを集めて銃剣で脅し連れ去った。その数147名にのぼる。
 
 こんな事件は東山島の隣村でも相次いで起こり、記録によればこの島だけで5千人ほどの若い男が強制的に連行され、国民党残党とともに台湾海峡を渡っていった。

一夜にして働き手の男達が連れ去られたあとの若い妻や子どもたちの驚きと怒り、そして悲しみと落胆はいかばかりだったろう。それ以来目に見えない政治・軍事的鉄格子はどっかりと台湾海峡に嵌め込まれ、手を伸ばせば届きそうな台湾との往来が閉ざされてしまったのだから。

それでも非合法のルートを頼って故郷にいる妻子や親を慕う若者達の手紙は時折届いたらしい。もちろん残された妻や家族も切実な思いを手紙に託して送ったことはいうまでもない。

台湾の先住民の言語はビン南語(ビンは門の中に虫)である。ビン南語は、福建省南部一帯に用いられる言語で、ここ東山島もその範疇にある。だから連行された若者たちの一点の救いは言語が通じるということであったろう。しかし、台湾の政治を独占し続けたのは外省人と呼ばれ蒋介石を祖とする国民党であった。敵対する中国共産党との間に融和の兆しは全く見えなかった。
(イラスト:どくだみの花のころ)


それから50年、台湾の政情が激変する。

民進党の陳水扁が国民党支配から脱して台湾の指導者になるという大事件が起こった。この時東山島の人たちは大変喜んだという。強制連行された友邦が50年ぶりに戻ってくるチャンスがようやく訪れたのだ。しかし事態は思うようには進まなかった。台湾独立を党是とする陳水扁は、再び北京政府と対立する路線を選んだのである。

北京政府はそれ以前から台湾問題に敏感であった。独立などはもちろん論外、香港のようなかたちで領土に取り込みたいとアメとムチで台湾を揺さぶり続ける。

「三通」政策がそのアメの例である。79年、通商・通航・通郵のいわゆる「三通」の北京政府の提案は当時の国民党政府にあっさりはね退けられている。しかし陳水扁の失脚により再び国民党が政権を奪取すると今度は中国のアモイと台湾の金門島との間に「小三通」が成立した。

これを機に、親族探訪ならば短期旅行というかたちで渡航が許され、半世紀ぶりの夫婦・親子の対面が可能になったという。しかし依然として晴れて帰郷、ということにはならないのが政治の非情であった。

陳水扁政権下で台湾の独立が叫ばれた時、日本ではそのことを支持する声が高まった。「独立したい、と素朴に願っている民族を武力で威嚇する中国政府は許せない。」と。私もその時は心情的に独立を支持していた一人だった。

しかし今、こんな現実を目の前に突きつけられて私の衝撃は大きい。東山島民にとっては、理不尽に連行された人々の帰還をよそに置いて早々に独立などされては困るのである。この問題が政治的ルートに乗せられて解決の方向を探る動きを見せるのはいつのことだろうか。

あとでわかったことだが、前に書いた4階建て漁村の不思議な繁栄ぶりは、この「小三通」のもたらす影響であったのだ。このおかげで、東山島で捕れる魚貝類は新鮮なうちに台湾の高雄港に運ばれ流通する。また、台湾企業は中国南部一帯に進出し、多くの経済効果をもたらし始めている。こんな狭い東山島でも台湾製の電化製品や食品が結構目だっていたのはその効果である。

 私たちはそこを去るにあたってお世話になった学生の両親や近隣の人たちに感謝の念を述べた。別れを惜しみながら父親は、湾内でいかだ養殖されている大きな鯛を二匹も持たせてくれた。それは中国に住んではじめて出会った新鮮で色鮮やかな真鯛であった。
(イラスト:ブーゲンビリア)

↓田端ご夫妻のホームページはこちら
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tianduan

 

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