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![]() 第75 回( 7 月号) 「16年目の再会」 |
| 文・写真:田 端 克 敏 絵:田 端 道 子 |
<文字を大きくしてお読みになるには>Internet Explorer の場合メニューバーの[表示]から[文字のサイズ]→[最大]を選んでください。 山東大学は16年ぶりであった。大学の李銘敬先生から「ぜひもう一度。」という要請を数年前から受けてはいたが、その前にロシアのマガダンの大学に行くことが決まっていたし、ほぼ同時に福建省・アモイからも再度の熱烈なお誘いがあったりして、次々とそれらの地に出向いたために山東大学行きはのびのびとなっていたのであった。 (絵: マージャンに興ずる) 赴任に先立って山東省・済南の空港に降り立ったのはもう真夏の様相を見せ始めていた蒸し暑い6月の半ばのころであった。ロビーには待ち受ける李先生の満面の笑顔があった。 李先生とは少なからぬ因縁がある。 私が現役教師のころ、東京都からの派遣で山東大学に1年間赴任したのは1991年、その頃の中国はまだ開放経済前で、山東省の省都済南市ですら旧来の農村型経済を色濃く留めていた。食材は露天立ち並ぶ市場で買えたが冬場の野菜は白菜しかなく、魚はカチンカチンで骨だらけの太刀魚がたまに市場に並ぶだけ、小麦粉などは配給制でチケットを持たない私の手には入らなかった。日本から送った荷物は1か月たっぷりかかり、国際電話は申し込んでから3時間ほどで繋がればまだいいほうだった 中国語がさっぱりの私は、すぐ近くに住む李先生に何かとすがった。当時26歳の彼は結婚ほやほやの若手教師で、授業や研究などに忙殺されていたのにもかかわらずそういう私を常に快くサポートした。信じられないほどの薄給だったのに、彼はよく私を自宅に招いて昼飯をふるまった。 彼のすまいは雨漏りのする教員宿舎の一角で、ベッド一つだけで身動きならないワンルーム、台所は昼間も暗い廊下にプロパンガス一台、トイレは共用の屋外だった。料理は彼と奥さんが交代で作る炒めものの一菜と鍋ご飯、それをベッドに腰掛けて食った。しかしそんな素朴な料理が私には高級レストランなどよりはるかに身にしみてうまかった。 |
(絵:青唐辛子とにんにく)1年で帰国した私と彼はその後も手紙のやり取りなどで交流が続いたが、30歳を過ぎた彼に早稲田大学院への留学のチャンスが訪れた。貧乏教師の私は、そんな彼にお返しできるものといえば日本での保証人になってあげることぐらいしかなかった。彼の専攻は難しいと言われる日本中世文学で、博士号取得までには足掛け10年かかっている。 その間、彼はいろいろのアルバイトで生計を立てたし、途中、やはり山東大学の英語教師であった奥さんが生まれて間もない息子を両親に預け、自らの職を投げ打って来日するとホテルのベッドメークのアルバイトに身を投じて経済を支え続けた。そんな苦労が実を結び、彼ら夫婦は晴れて再び山東大学の教師として迎えられたのだった。 博士になった彼のこと、今では彼の身分に肩書きがついているだろうとは予想していた。しかし出会ってびっくり、42歳の彼はすでに外国語学部の副学部長兼日本語センター長という要職にあったのだった。「もう昔のように李さん、と気楽に呼べないね。」と思わず妻が言うと、「いえ、私にとって先生方はいつまでも日本のお父さん・お母さんです。ぜひ今までどおり李さんと呼んでください。」朴訥な表情に笑みを浮かべて彼はそう答えた。 「日本語科の新主任はケイ先生と言います。」とも付け加える。「ケイってどんな字を書くの。」と私。「形の偏に阝の旁、名前は永鳳です。」そう聞いて私は以前この大学でそんな名前の女子学生を教えたことがあるな、とふと思った。 翌日会ってまたびっくり、何と新主任とはまさにその彼女だったのだ。学生時代の彼女は声の大きな元気じるしを掲げたような人だったが、目の前の彼女はまさにそのまま。「へええ、こんな再会ってあるんだねえ。」私たちは互いに奇遇を喜び合った。 彼女は大学を卒業すると一念発起して山口大学に留学し、以来苦節9年で博士号を取得している。今は5歳になる男の子の母親だという。彼女にはこれから直接さまざまな面でお世話になる。私たちの宿舎の手配や生活の手助け、授業時間の割り振り、授業内容の検討など雑多で面倒な仕事が付加されるのだ。 |
(絵:新緑の散歩道)もう一人「先生、私を覚えていますか。」とその翌日尋ねてきた女性がいた。肖霞先生という。91年当時、全国から若手の日本語教師をこの大学に集めて1年間の研修をさせるコースがあったが、その授業の一端を私が受け持ち、彼女もその受講者の一人であったのだ。当時すでに彼女は結婚していたが、そのダンナは今や別の大学の副学長にまで出世していた。肖霞先生は専ら日本文学史を講義していると言う。 山東人は中国でも人情や礼節の厚いことで知られているが、こんな奇遇に裏打ちされた情の厚さはなかなか他省では味わえない。ケイ先生は、「私の同級生は山東趙各地に散らばっていますから、そのうちぜひみんなを集めて先生に会わせます。」と息を弾ませる。 そういえば済南の町は以前とは比較にならない賑わいを見せているのに、不思議にも山東大学だけは昔とほとんど変わらない。特に外国語学部のあるキャンパスは、校舎も昔のままのたたずまいだし、西門辺りなど昔の写真を持ってきたかと思えるほど変わっていない。他の大学が次々に校舎を刷新し近代化を遂げていく中で、この頑迷なまでの旧態依然ぶりにはむしろ快哉を叫びたくなる。金もうけに疎く、うまく立ち回ることの苦手な山東人気質そのものを見た思いがした。 済南にきたらぜひ会いたいと思う人が数多いる。例えばふとしたきっかけで親交を重ねることになった山東師範大学の張敬東先生である。彼は人をそらさぬ温厚な人柄で国際交流並びに合作所所長(大学事務所長)まで上り詰めている。日本の大学事務所長とは比較にならない権限を持つ立場であるが決して偉ぶるところがない。今や超多忙人になった彼とは12月も押し迫ったころようやく会うことができた。 また、山東芸術学院の教授史振峰氏がいる。水墨画の大家である彼は、私を自宅に呼んでは酒や馳走を振舞い、芸術談義を交わすのを何よりの楽しみとしていた人であった。今では高齢でために耳も遠くなりあまり外出もしなくなったと聞く。 魏啓後氏は現代中国において稀なリズム感とスリムでいてふくよかな線質を持つ書家である。著名ゆえになかなか人と会おうとしない人なのだが、なぜか私には気さくに何度もあってくれ、その都度時間が経つのも忘れて交互に書を書いては酒を酌み交わした。いまや90歳を越えて筆を執ることもまれになった、とある人は言う。 こうやって書き連ねてみても、16年前に1年足らず滞在した済南の町でその後の10年に匹適する貴重な出会いをくり返している。しかし再着任した9月以降は授業に追われてそれらの人たちとゆっくり旧交を温める暇もなかった。2学期にはぜひとも彼ら一人一人に会いに行くぞ、と心に決めて冬休みに一時帰国したところで私は脳梗塞でダウン、医者から再渡航を禁止されてしまった。加えて妻は昨秋膝を痛め、これまた歩くことも困難な状態だ。 あれもやりたい、こうもしたいと心に描いていた2学期の授業、学生達のひとりひとり顔が瞼に浮かんでいたたまれない。それに加えて、これからゆっくり名所旧跡をともに歩きましょうと別れた李先生、先生を同窓のみんなに会わせますから、と約束したケイ先生、「先生が済南に戻ったら、私のふるさとに先生をお連れします。」と具体的な計画まで示して誘ってくれた肖先生、互いの年齢を考えるともはや難しくなったと観念するしかない上記の老先生方との再会、そういう彼らの面影が去来するたびに臍を噛む思いがする。 ↓田端ご夫妻のホームページはこちら http://www5e.biglobe.ne.jp/~tianduan (絵:ちょんがけコマで遊ぶ人) |
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| 中高年の「元気が出るページ」10周年記念会 (読者と執筆者の懇親会)へのお誘い |
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いつも当ホームページをご愛読くださいましてありがとうございます。 さて、当ホームページは今年8月で10周年を迎えます。これもひとえ に読者の皆様と執筆者のお陰と感謝しています。この機会に、読者と執筆者が一堂に会して、交流の集いを 催したいと思います。 すでに予告してきましたので参加希望のお返事を頂いている方もありま すが、改めてご案内いたします。 日時:10月17日(金) 午後1時30分〜4時30分 会場:日本記者クラブ 東京都千代田区内幸町2-2-1日本プレスセンタービル9F 定員:40名ですが既にお申込頂いている方がありますので、 先着順10 名で閉め切らせていただきます。(必ずお返事 いたします) 予定会費:7千円(懇親会立食パーティー代) ご回答は、下記メールアドレスに次の項目をご記入の上お送りください。 1、お名前 2、ご住所 3、メールアドレス 4、参加希望のご回答 5、会内容へのアイディア、ご意見、ご要望 送り先メールアドレス:genki@abox3.so-net.ne.jp ─────────────── 中高年の「元気が出るページ」 編集人 村上芳信 ─────────────── |
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