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| 第18回 |
| 阿部幾応 著・新風書房刊「洋酒業界を生きた企業戦士」より抜粋 |
| 戦後史の草創期 |
| ヲ「厳しい戦後生活へのスタート」 この度の大平洋戦争で、戦没者は軍人百五十万人、民間人三十万 人と発表された。 戦後初の国勢調査が行われ、日本の総人口は七千ニ百万人で、女 性が男性よりも四百二十万人上回った。 八月末マッカーサー司令官が厚木飛行場に到着、GHQ(連合軍総 司令部)が丸の内のお堀り端に面した第一生命ビル内に設けられた。 都市の盛り場では、闇市が開かれていた。物凄いインフレで米一 升が七十円、基準価格が五十三銭だから百三十ニ倍であり、砂糖は 一貫目千円、同三円七十五銭でニ百六十七倍といった有様であった。 農大校舎は前述のように空襲で焼失したので、本部は世田谷桜ヶ 丘に移し、十月一日から戦後初めての授業を行うことになった。し かし、丁度秋の収穫期に入っていたので、農家から稲の収穫の応援 を要請される。そこで私たちのクラスは、群馬県の渋川方面の農家 へ手伝いに行くことになった。榛名山がよく見えて素晴らしい展望 だったが、慣れない重労働で朝の八時から夕方の六時まで作業して、 綿のごとく疲れはてた。やったことのない稲刈り、稲干し、脱穀な どの大忙しで困憊したが、嬉しかったのは銀シャリの白米のご飯に ありつけたことだった。 波乱万丈の年だった二十年は暮れて、二十一年の二月を迎えた。 政府は「金融緊急措置令」を発令した。これは自分のお金でありな がら、従来の旧円貨幣や貯金は使えなくて、いわゆる「封鎖」措置 が施行されたのだ。この当時のことは、身をもって体験した人でな いと、若い人たちにはどう説明しても到底理解してもらえないだろ う。当時の金融政策としてはやむを得なかったと思われる。 進駐軍のジープが街のあちこちを横行した。この占領軍の相手を する通称「パンパン」と称するステッキガールや娼婦が、繁華街を 徘徊する。何とも目ざわりなことだった。GI(兵隊)と腕を組んで 街を闊歩することで、知識人からのひんしゅくをかった。 煙草の自由販売が再開され、ピース十本入りが七円、コロナが十 円で新発売され、タバコ屋への行列によく参加した。煙草の味を覚 え、この年の十八歳から禁煙を誓った五十一歳の三十三年間、喫煙 をつづけた。 さて、敗戦明け一年目の暮らしの窮屈ぶりについて若干述べてお きたい。 エネルギー不足のため、よく停電があった。一方水道の圧力が弱 いので、水が出ない。表通りの水田邸の前が消火栓になっていて、 そこへ配水時間が一日のうち「何時」ときめられて、となり組の人 たちが石油缶などをおおおお持ち寄って「水を確保」しにいくので ある。三日に一度ぐらいはどこの家でも風呂を沸かすことになるか ら、そのときは石油缶に水を満杯にして、天秤棒を肩に当てがい、 右手で前方の支え綱を、左手で後方の支え綱をしっかり持ち、腰で 調子をとりながら、風呂がはいれるぐらいまで何回となく水運びを する。日本舞踊で「汐汲み」というのがあるが、そんな風流気は微 塵もない。 また、燃料不足がガスが出ない。薪割りも結構日課になって、小 学生のとき教わった剣道の「面打ち」の要領でやれば、物不足も楽 しい。 当時、一般に家庭菜園が大流行だった、経費をかけた防空壕は無 用の長物となって、元通りに埋めて、庭一面を掘り返して「菜園」 にした。本門寺公園の近くへいって草を刈ってきて、その上に人糞 をかけ、さらにその上に乾かした草を重ねて本格的な堆肥をつくっ た。農大で習ったことが早速利用できて、ナスやトマトや、キュウ リ、大根、人参、南瓜、蕪、ホウレン草や小松菜など殆どみな栽培 できた。菜園での植物の成長、収穫期ほど嬉しいものはない。花弁 園芸で将来身を立てたいと思ったので、色々な草花も栽培してみた。 しかし、何といっても主食が不足しているので、父の手蔓や紹介で 闇米・芋類などを買い出しに、茨城県下の竜ヶ崎をはじめ近県の農 家へよく行った。 都会の現実の食糧不足は目を覆うばかりで、日々のインフレは抑 えようがなく、日本中が真っ暗やみの真っただ中に放り出されたよ うなものだった。しかし、敗戦で虚脱状態に陥った日本人は、それ でも何としても生き抜かねばならなかった。 日々の食事はというと、主食はメリケン粉を加工したものだった。 戦時中から有名になった、「水団(すいとん)」である。小麦粉を 水でこね適当な大きさにちぎり、野菜等と一緒に味噌汁やすまし汁 などに入れて煮た食べ物なのである。その他小麦粉にベイキングパ ウダーをこねて電熱器に入れ、蒸しパンのような代用食をつくって 食事にあてた。薩摩芋を蒸かしたふかし芋は大歓迎であった。一週 間に一度ぐらいは待望の銀シャリ米飯にありつけた。 ある日、学校の帰り日比谷図書館に立ち寄って調べ物をしようと 思い立った。昼時だったのでその前に日比谷公園で食事をしようと ベンチに腰掛けて母の手づくりの弁当を開いた。何やら背後から三、 四人しのび寄る子どもらしい人影を感じた。公園を寝ぐらにしてい る浮浪児だった。 「あのー小父ちゃん。小父ちゃんの食べているご飯、分けてくれな い・・・・? きのうから何も食べていなくて、腹ぺこなんだよ・ ・・・」 と言って、汚い空のアルミ缶の弁当箱を目の前に突き出してきた。 私は、九月に高岡へ貰い受けに行った栄養失調の弟の幻想を見る ような感じだった。この子供たちはおそらく空襲で親を亡くし、家 を焼かれた孤児となったのであろう。憐れを誘った。そして、大半 のご飯とおかずを与えることにした。 何れにしろ食糧の絶対量が不足していた。「飯米獲得人民大会」 つまり、食糧メーデーが日比谷公園で開かれ、代表グループが首相 官邸に座り込みをやったりした時代だった。 |
| ヲ「二十歳前に自動車運転免許取得」 私が十九歳の春だったと思う。ある日父から 「これからは車社会の時代になるぞ。いまから自動車の運転免許を とっておいてはどうかね・・・・」 と、すすめられた。 当時の日本の車は、ガソリンが不足で木炭車の時代であった。国 鉄田町駅の近くに「三田自動車教習所」というのがオープンしてい た。私は父のいうことを素直に聞いて、学業の余暇に田町まで運転 を習いに行った。その試運転する車が、小型のダットサンの木炭車 であった。 私の運転席の横の助手席には、復員帰りのお兄ちゃんのような指 導員が乗り、ガミガミどなりながらの実地指導であった。どうやら この実地試験をパスして、今度は品川鮫州まで行ってペーパーテス トを受けるわけである。試験はいまの「◯」印法と違って、警察官 が黒板に三問問題を出すのを、B4サイズの用紙に論述で解答する のである。論述表現が的を射ていないと合格しない。こちらは暗記 力抜群の若さだから、一夜漬けで覚えた法規を試験場で如何なく発 揮できる。記述は得意だから一発で合格する。ところが両隣りの四 十歳前後の小父さん連中は書くことが苦手らしく、百人ぐらい受け て半分ぐらいしか合格しなかった。 試験場で同じ農大の一年先輩岡村忠雄兄に偶然会った。東京の酒 類問屋のしにせ大星岡村商店(滋賀県出身)の社長令息で、今では 横浜市で問屋を継承され繁盛している。 今にして思うとあの時の父のアドバイスは、その後の車社会を見 越した父の慧眼だった。のちに私が営業マンとして各地を飛び回る のに大変役立ったことはいうまでもない。 昭和二十三年、二十歳を迎えた。 敗戦と同時に日本に乗り込んできた占領軍によって、労働基準法 や独占禁止法などが政府から公布された。世はいくらか民主化の様 相を呈してきたが、戦後の復興期の真っただ中でこの年の東京都人 口は五百万人であった。 食糧不足は相変わらず深刻で、配給物は遅配や欠配が続出した。 人々は口に入るものは何でも食べて、飢えを凌ぐ有様だった。都市 生活者は辛うじて焼け残った衣類などを持って、依然、遠くの農村 へ食料の買い出しに行かざるを得なかった。衣類を一枚一枚はぐよ うに暮す姿は「タケノコ生活」と呼ばれた。農村へ向かう買い出し 列車に、人々は我れ先につめかけ、窓からでも何とか乗り込もうと 必死だった。「買い出し」も、まさに命がけだったのだ。 こうしたギスギスした世相のなかにあって一服の涼風は、アメリ カ映画の上映であった。 |
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