第18回
 とうとうここで、また一巻の終りか?やっとここまで生き延びてきたのに、なんともいやな終りかただ。もう少しましな死に方ができないものかと思っていると、われわれを袋だたきにした屈強の若者たち14、5人がやって来て、結わいた手と足の間に丸太を通し、まるで豚か狸を生け捕りにしたように前と後ろで担ぎ上げて運び出した。
 そんな格好で部落を出た。われわれ二人を生贄(いけにえ)として、なぶり殺しにでもするつもりか。
 それとも、部落の中で料理され食われてしまうのではないのか?
 そのまま訳の分からない掛け声よろしく山を下りはじめた。どこか違う場所でやるんだな、どうとでもしろと思っていると、何時までたっても下ろさない。
 何かのまじないのつもりか?
 これがこの辺のしきたりなのか?
 あれこれ考えているうちに、頭の中が真っ暗になり、不安と苛立ちで一杯になってきた。

  
 それにしても馬鹿に遠くまで、手間の掛かることをするもんだと思っていると、海岸に出てしまった。そうか、海へ突き落とすのかと観念していると、20人乗りぐらいの丸木舟へ投げ込まれた。
 みんな歓声をあげて沖へ漕ぎ出した。なぜか船端を叩き、勝ち誇ったような仕種で、勝鬨のような声をあげて歌っている。櫂をこぐリズムにのせて大喜びで歌っているのだ。
 何時間かかったかよく判らないが、着いたところは、なんと米軍のツラギ基地だった。







               捕虜






ツラギ

 われわれ二人は、西フロリダ島に上陸以来、無我夢中で島の中を歩き通したので、ツラギからだいぶ遠く離れたつもりでいたのだが、ツラギがこれほど近かったのには驚いた。
 結局われわれの行動範囲は、島の上陸地点近くをうろうろしていたばかりで、いわば小さな島内を堂々巡りしていたにすぎなかた。
 米軍は酋長たちへ布令を出し、日本の敗残兵を生け捕りにした場合、褒美に刃物や布地をやっていたらしい。
 この布令のおかげで、二人は現地人に殺されずにすんだともいえる。
 しかし、すでに述べてきたように、日本軍人なら「捕虜になる前に死を選べ」ときびしく教育されてきた。逃げて逃げて逃げ回ってきたものの力及ばず、とうとう敵の手に落ちてしまったことは軍規に反し、その罪「万死に価する」に等しかった。
 米軍に突き出されて、最初にわれわれと相対したのは、通訳と軍医らしい兵隊だった。
 軍医はわれわれが縛られている両手両足の木の皮をナイフで切り、後頭部の傷や鼻血の治療をしてくれた。
 通訳から立ってみろといわれたが、とても立てるものではなかった。
 現地人の縛り方は日本のとはちがい、両手両足に木の皮をただぐるぐる巻きにして、皮の最後を巻いた中へ突っ込み、その上をまた同じように巻くという単純な方法だが、6時間ちかく縛られたままでいたので、一通りの苦しさではなかった。両手はゴム手袋のように紫色に腫れ上がり、両足も同じようにぱんぱんに腫れ上がって、手を握ることもできなかった。
 島の男たちは、褒美を貰うとにぎやかに帰っていった。
 つぎに会ったのは、尋問の内容から察して諜報機関の将校らしかった。わが軍の内情、部隊、階級、名前を聞かれた。
 捕虜になってしまった自分が、いまできることは敵に本当のことを自白しないことだと思案の末、すべて嘘をついた。
 このときから私の名を「田中」にした。
                                 つづく
第19回は4月13日(火)の予定
読み終わったらこのウィンドウは閉じてください。
その頃の戦局は

1942年(昭和17年)

11月 5日
連合軍、ガダルカナルを増強。


   10日
第38師団600人の増援部隊、ガダルカナル島に上陸。

   12日
第3次ソロモン海戦。ガダルカナル島砲撃の任務をおびた海軍挺身攻撃隊、米水上部隊と交戦。

   16日
連合軍、ソロモン諸島ブナ南東オロ湾付近に上陸。

   17日
ブナ方面に増援部隊揚陸。

   30日
ルンガ沖夜戦。ガダルカナル島輸送の駆逐艦8隻、敵有力部隊と交戦、揚陸不成功。

12月 8日
ニューギニアのパサブア守備隊玉砕。800人戦死。

   18日
ニューギニアのウエワク・マダン占領。