| ごあいさつ いつも中高年の「元気が出るページ」をお読み下さいましてありがとうございます。 今は戦争のない平和な世の中、しかし景気は低迷、中高年はリストラの矢面に立たされ気分も湿りがちです。この本の当時は戦乱の中、今と比較するべくもありませんが、この「地獄からの生還」をお読み頂いて、多少とも元気を取り戻して頂けたらとの思いからお送りすることにいたしました。 このお話は、櫻井氏から自費出版の依頼を受けて、氏の希有な体験に基づき、豆の木工房が編集制作、数年前に本として完成したものです。自費出版のため部数は少なく、限られた方にしかお読み頂いておりません。弊社としては少しでも多くの方にお読み頂きたいと以前から考えておりましたので、「元気が出るページの」“学ぶ”のコーナーの特集として取り上げることにしました。 内容は櫻井氏が横浜海軍航空隊に入隊してから浦賀へ帰還するまでの、波乱に満ちた話を、ありのまま赤裸々に綴った貴重な人間の記録です。 いまなぜ戦争の話なのか?と、問われそうですが。櫻井氏は「浮世の苦労など苦労のうちに入らん」と、よく言われます。この言葉の重みがお読み頂くうちにきっと分かって頂けると思います。12月8日は日本が真珠湾攻撃をした日。櫻井氏の運命の糸はこの日から始まっていたように思え、連載のスタートの日にしました。火曜日を更新の日にして、来年の8月15日終戦記念日頃まで36回連載いたします。 連載、しかも戦記もの、みなさんが読みつづけて下さるかどうか本当は心配しています。掲示板に「続けろ!」の一言でも励ましの言葉を頂戴出来れば幸甚です。 株式会社 豆の木工房 「元気が出るページ」編集部 |
|||||
|
|
|||||
![]() |
|||||
| まえがき 私は大正10年(1921年)生まれの酉歳、今年6月満77歳になりました。私と同世代の多くの人たちは、いまから57年前の第二次世界大戦にはじまった大東亜戦争−太平洋戦争の犠牲となり、内地、外地の別なく、生と死の境を身を以て体験された方が多いと思います。
|
|||||
![]() |
|||||
| その頃の戦局は 1940年(昭和15年) 9月2日 日独伊三国同盟調印。 1941年(昭和16年) 6月22日 独軍ソ連(ロシア)に侵入、独ソ戦勃発。 12月1日 御前会議、対米英蘭開戦を決定。 8日 真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。 1942年(昭和17年) 1月 日本軍、マニラ占領。マレーのクアラルンプール占領。シンガポール占領。ビルマのタボイ占領。 ニューブリテン島ラバウル占領。ボルネオのバリクパパン占領。ビルマのモールメン占領。 2月 セレベス島マカッサル占領。シンガポール陥落、英軍無条件降伏。チモール島占領。 3月 ラングーン占領。ニューギニアのラエとサラモア占領。ジャワ島蘭印軍無条件降伏。クリスマス島占領。 5月 ビルマのマンダレー占領。 3日 ソロモン諸島のツラギ島、タナンボコ島、ガブツ島に日本軍上陸。ビルマのバーモ占領。 ビルマ・中国国境竜陵を占領。コレヒドール島占領。 6月5日 ミッドウェー海戦で、日本軍連合艦隊大敗。 アッツ島占領。キスカ占領。 16日 海軍設営隊、ガダルカナル島飛行場建設作業を開始。 |
横浜海軍航空隊入隊 1941年(昭和16年)5月、20歳になった私は家族や友人たちの歓呼の声に送られ、志願兵として横須賀海兵団に入団した。この12月、太平洋戦争が勃発した。 このため海軍工作学校を8ヵ月で繰り上げ終了して実施部隊『横浜海軍航空隊』(通称「浜空」)に同僚の長谷川昌三とともに配属された。主に九七式大艇と二式水上戦闘機の部隊だった。 その頃、浜空の本隊はニューギニアの北東、ニューブリテン島のラバウルにいた。翌年、昭和17年4月か6月、私は残留部隊にのこるはずだったが、ラバウルへ赴くことになっていた長谷川が急性盲腸炎のためかで行けなくなり、かわって私が本隊へ送られることになった。入隊後わずか2週間たらずのことだった。 部隊名は『ウの105−53部隊』(ウのヒトマルゴと読みラバウルを表し、ゴオサンは横浜航空隊を表す記号だ。)この交替が運不運の岐かれ目となる最初だった。 当時、私の家には電話がなかったので、裏の酒屋へ電話して家のものを呼び出してもらった。行く先は秘密にしなければならず、急いでいたので出てくれた二番目の姉に、現在のJR桜木町駅を待ち合わせ場所に指定して電話を切った。 が、この時はとうとう会えず、飛行機でサイパン経由ラバウルへ私一人が送られた。あとからの手紙で分かったことだが、父、姉二人と弟が横浜駅で待っていたというのだ。来てくれた家族の一人ひとりに、別れのことばのひとつでも言って出発したかったのだが、なんとも歯切れの悪い発ち方をしてきてしまったと、虫の知らせというか、いつまでも悔やまれてならなかった。 私は工作兵で飛行機などの修理をする兵隊だったが、溶接専修を修了をしたばかりの新米、修理をするには熟練が必要で、新兵の私などには溶接器などさわることさえできなかった。 隊には若い兵隊がいなかったので、私は士官の従兵をせよということになった。士官室には大尉の分隊長と星野萬吉分隊長の二人がおり、食事、洗濯、伝令などの世話をさせられた。まだその頃は、一通りの用事がすめばあとは呑気なものだった。 ツラギ島、タナンボコ島、ガブツ島 日本から南東およそ6000キロの南太平洋上に、約1500キロメートルにわたって二条に伸びる大小様々な島々がソロモン諸島である。 主な島には、ブーゲンビル、ガダルカナル、ショアズール、ニュージョージア、サンタイサベル、マライタ、サンクリストバル、サンタクルーズ諸島などがある。これらのうち一番大きな島がガダルカナルである。 ガダルカナルから42、3キロ先にツラギ島があり、このツラギ島から約3キロ離れたところに、現地人も住まない離れ小島のタナンボコとガブツがあった。 この2つの小島は、日本軍がオーストラリアの沿岸警備隊を追い出したあと、軍の最前線として横浜海軍航空隊の水上飛行機発着基地となりこの周辺をツラギ基地と呼んだ。 ![]() ![]() ツラギ進出 ラバウルには1ヵ月たらずで、「浜空」の主力はガダルカナルと指呼の間にある対岸のツラギ島へ進出することになった。 貨物船の前後に機銃を乗せた特務艦「最上川丸」は京城丸、吾妻山丸とともに出港した。護衛の駆潜艇二隻の間を通過したとおもうと、ガダルカナル島が見えるザボ島沖で突如、ドカンと一発、大爆発音におどろいて飛び起きた。上甲板に出たときには二番艦の京城丸は既に右に傾きかけていた。これまでも潜水艦に気をつけて蛇行を重ねてきたのに、しかも目的地ツラギは目と鼻のさきというところで、敵の魚雷にやられ海の藻くずと消えて行くとは。実戦未経験の私には、不吉な予感があたってしまったような気持ちで大きなショックだったが、これが最初の試練となった。 私の動揺をさらにあおるかのように、艦は激しく蛇行に蛇行をかさねながらやっとツラギ島近くの小さな離れ島、ガブツ島桟橋へ6月下旬に着いた。 早々に荷揚げを急いだが、器材、将校の荷物、爆弾、飛行機用燃料も2、3日かかって船から降ろした。 タナンボコ島は珊瑚礁に囲まれた、たて200メートルよこ150メートルの小島で、ガブツ島と二つの島を木の橋で繋いだ連絡橋がある。それぞれ島の中央には高地があって、高射砲13ミリ機銃座も一門ずつあった。プレハブの兵舎と二つの防空壕もあって、いわば天然の要塞になっていた。 定時に水上戦闘機は敵機が入り込まないように上空哨戒にあたり、九七式大艇がポートモレスビーを爆撃と哨戒に発着することでもなければ南洋の楽天地だった。 魚類も豊富で餌をつけて釣糸を投げこめばすぐ何十匹も釣れた。ただボラだけは食えなかった。海面に突き出たトイレの下には、われわれの排泄物を食べてしまうボラが群れているのだ。陸地には椰子が繁り風光明媚、しばらくはこれが最前列かと疑うような日々が続いた。 私は星野軍医長と横浜航空隊の分隊長(工作科隊長を兼ねていた)二人の従兵をつとめた。 8月3日か4日頃だった、分隊長がラバウルへ帰ることになった。私も工作科の兵隊、釣れて帰ってもらっていたら、あんな目に会わずにすんだのだ。 しかし、星野軍医長に遠慮したのか、どうかは分からなかったが、分隊長は私に「ここも、ラバウルと同じようなもんだ。お前はここへ残れ」といわれ、素直に「はい」と答えたのが運のつきだった。まさかあのような部隊全滅に遭遇しようとは、夢にも思わなかった。 つづく |
||||