第20回
 収容所内は、主戦闘員と非戦闘員との二つに分けられていた。
 宮川とわたしは主戦闘員の方へ入れられた。そこにはすでに二人の先客があった。
 一人はゼロ戦(零式戦闘機)の搭乗員で三等下士官の藤田保兵曹。
 一式陸攻(双発爆撃機)の護衛でついてきたところ、敵機と遭遇、空中戦になり燃料タンクに被弾し、気付いたときにはすでに燃料がなくなっていたという。決死の覚悟で不時着を試み、絶海に突っ込んだ。機体は破損したが、さいわい怪我はなく、気絶して浮いていたところを運良くというか、運悪くというのか、敵に拾われてしまった。
 もう一人は警備隊の福田一水(一等水兵)で応召兵だった。
 ガダルカナル島に近い島の警備隊員に派遣され、隊員は35名いたそうだ。
 敵の急襲にあい左膝頭を貫通、死んだ仲間の下敷きになり、気を失っているところを捕まってしまった。
 この時、隊員の遺体は33名しかなく、1名が消息不明となり行方がわからない。
 この1名は、以前から現地人の酋長の娘と噂があったというのだが、娘は事前に敵の襲撃を知っていて男を連れ出し、この襲撃のときには、すでに隊にいなかったのではないかということだった。
 主戦闘員グループはたったこの4人だけであった。
 一方の非戦闘員たちは、徴用工員が多く、ガダルカナルに飛行場をつくるために送り込まれた第11設営隊と13設営隊の生き残りの人たちだった。
 彼らは内地の軍需工場から無理に引き抜かれた人たちで、公共の仕事をしていた役職者から技術者、電信電話関係者、大工さん、兵役前の18才の若者まで、いろいろな職種の人たちが60人ぐらい入り交じっていた。
 飛行場設営工事は、海軍の兵役を終えた予備将校を責任者に、彼らを部下にして働かせた。今のようにブルドーザーもなく、スコップ、つるはし、もっこなどで土方のような作業を毎日させられていたらしい。
 米軍上陸後の彼らの行動は、昼間動くと敵の銃撃にあうので、夜半食べ物を探しにさまよった。囮とも知らずに拾った椰子の実には細い針金がついていて、拾っていくと仕掛けの鳴子が鳴った。それを合図にあかあかと照明がつき、「動くな!動くと撃つぞ!」で捕まってしまった人たちだった。
 この設営隊の中には、明大を中退した中谷という隊員がいた。彼は英語が少々できるというので、通訳がわりをさせられていた。
 われわれ4人の所へもきて、尋問の手伝いをさせられていた。みな勝手な偽名を使っていたので、私はとっさに田中と名乗った。
 非戦闘員たちは、日本軍が死闘をくりひろげたルンガ岬へ毎日狩り出されて、戦死した多くの兵士の死体処理をさせられていた。
 彼らは穴を掘らされ、海岸一面に重なるようにして斃れている、おびただしい数の腐乱した死体を、トタン板に棒でなん体も転がして乗せ、引きずってきては穴へ放り込んで埋めたと話していた。昨日90体、今日は80体を処理したとか。
 米軍は、日本のネイビー(海軍の兵隊)とソルジャー(陸軍の兵隊)は命がけでやるので、なにをするか分からないと恐がっている様子だった。われわれを外へは出さず、仕事もさせなかった。
 福田一水は1日1回治療を受けていた。治療といっても工員さんが傷口にマーキュロのようなものを塗ってくれるだけだった。
 われわれは栄養失調のため、満足に歩けないので、日がな1日床にごろ寝していた。食事が運ばれてくるとその時だけ起き上がった。
 日中なにもしないでいても、じっとり汗がでてくる暑さであるが、内地の暑さとはちがい湿気がないので、椰子の木陰に入れば風もあり過ごしやすかった。その代り、熱帯特有のモンスーンのため夜中はぐっと冷え込んだ。
                                つづく
第21回、第22回は4月27日(火)の予定
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