ここでの食事は1日2回。朝10時と徴用工員の人たちが外の作業から帰ってきたあとの5時であった。
食べさせられたものは、片栗粉のうどんのような、とう麺というものだった。元はといえば、とう麺は徴用工員が日本から持ってきていたもので、米軍に分捕られたものだった。この食事も米軍はわれわれ主戦闘員を恐がって、徴用工員に運ばせた。
とう麺ばかり当分続いて、飽きあきしてきたが、しかし、食べ物を探してジャングルをさまよい歩くよりはずっとましだった。
暫くするとわが軍の飛行機が、夜中の2時、3時ごろ空襲にやってくることが多くなった。
ラバウル基地から飛んでくるものと思われた。
収容所の米兵はテントで簡易ベットに真っ裸で寝ていて、日本の飛行機に急襲されると、アワを食って、服も着ないで外へ飛び出してきた。
自分たちも友軍機の空襲の危険にさらされながら、それを見ていてアメ公がフルチンでまた飛び出してきやがったと、口汚く罵っては、溜飲を下げていた。
日本軍の空からの空襲が頻繁になると、収容所の米兵たちは日本軍が近く上陸してくるのではないかと浮き足立っているように見えた。
そんな状況下で、捕虜の日本兵がいたのでは何が起こるか分からないと思ったらしい。物資を運んできた3000トンぐらいの特務艦に急遽、われわれ捕虜全員が乗せられ、艦はスピードを早めて南下して行った。母国はますます遠くなってゆく。
ニュージーランド護送
何日かたって、補給に寄港したところはニューカレドニア島ではなかったかと思う。
船に乗せられたほとんどの者は、負傷やマラリヤ、栄養失調などで弱っている者ばかりだった。
運ばれていく船の船倉に入れられ、梯子をはずされたわれわれの楽しみといえば、船員にねだって貰った煙草を皆でまわしのみするくらいであった。といってもマッチがなければ吸えなかった。米軍のマッチは靴の裏や壁にこすって点火させるので、煙草をのむたびに、船員に一本船倉の上から投げてもらわなければならなかった。
体は弱っているものの、退屈しのぎに考えたことは、煙草の火種をいつも手許にとっておく方法だった。タオルの糸を何本も引きだし、紐状によって、この先に火を点け消さないように交替で持ち歩いた。消えそうになると紐の先を振り回して火を起こした。
この紐が燃える臭いに階上の米兵が気付き、なにか下でくすぶっていると、勘違いして梯子を下ろして調べにきたことがある。
米兵は武器を持って降りると多勢に無勢、逆に武器をとられて脅されかねない。用心に用心をして武器を持たずに降りてきて調べ始めた。火種を持つ当人は、調べながら移動して行く兵隊の後ろへうしろへとまわる。周りもそれに協力し、ついに見つからず終いになった。こんなことも、敵の裏をかいたほんの一時のなぐさめで、皆で笑いあった。
非戦闘員は、船内作業で、例えばトイレの掃除などをさせらることがあった。敵さんも真面目に作業をする人間を覚えていて、その人間を指名してくることが多かった。
作業をした者にキャラメル数粒とか、おやつ程度の食べ物をくれることがあった。誰もが空腹でいるため、いやな作業もこんどは俺がいくという者もいた。だがそういう者にかぎって、作業中なにかをちょろまかしてきた。しかし、万事におおまかな米兵にたまには見つかって罰を受けることもあった。
あるとき業務用の大型みかんの缶詰を盗んで見つかった者がいた。日本なら半殺しの目にあうところだが、むこうの罰は盗んだ大型缶を目の前で開け、いますぐここで全部食べろというものだった。決して殴る蹴るをしないで、無理やり「ハリーハリー」と急き立てて食べさせるのだ。罰を受ける者は、その量の多さに苦しくなり、かならず全部吐いてしまった。
罰を受けたあとのわれわれの報復は幼稚だった。船倉のまわりに張り巡らされている船内電話線を切って、敵が困るのを喜んだりする、たわいないいたずら程度だった。
フェザーストン捕虜収容所

ウェリントン港
船は大きなトラブルもなく南下して1942年(昭和17年)12月、真夏日のかんかん照る暑いニュージーランドのウェリントン港に着いた。
流れながれて日本から約9000キロ、南極近い島まで運ばれてしまった。
ニュージーランド島はオーストラリアの東方約1600キロの南太平洋にある国で、当時は英連邦の自治領であった。北半球とは逆で、12月前後が夏で8月前後は冬である。いわゆる北風の吹く日は暖かく南風の吹く日は寒い。後日知ったことだがウェリントン地方の平均温度は、12月最高29.1度、最低3.4度、8月最高18.9度、最低マイナス1.6度である。一日の寒暖が激しく、この気温の変化に適応することはなかなか容易ではない。
港にあがると人員点検があり、船の米軍からニュージーランド軍へ引き渡された。
われわれ捕虜60数人は2台の幌付きトラックに乗せられた。
トラックは全員を振り落とさんばかりに大揺れにゆれながら、山道をいく度となく登り下りして走った。
幌の隙間から垣間見る景色は、枯木が一面に倒れている不毛の地であった。われわれの行く末を象徴するかのような暗い風景に、不安は募るばかりであった。
山道をさらに下り平坦な道にかわると、人家がぽつん、またぽつんと見えてきた。
フェザーストン捕虜収容所
数時間かかってやっと車が止まり、降ろされたところは二重に張り巡らされた鉄条網の中だった。外側の鉄条網には電気が通じていた。
柵の中には黒服を着た異様な風体の人々があちこちにいた。朝鮮人か中国人らしかった。
ニュージーランド人らしい通訳が、流暢な日本語でしゃべり始めたのには驚いた。
「みなさん長い道中、はるばるとご苦労さまでございました。さあ、どうぞずっと中へ入ってください」
それにつづいて、日本語での
「中にいる方々はみなさんのお仲間ですよ」
に二度びっくりした。
捕虜はわれわれだけかと思っていたが、先に捕まっていた連中が、こんなに沢山いたのだ。ああ、自分たちだけではなかったと、どこかほっとした気分になり心強くもあった。
ここが、『フェザーストン捕虜収容所』だった。
ここも2つのキャンプに分けられていた。No.1(第一収容所)は非戦闘員の徴用工員の人たち310数人。No.2(第二収容所)はわれわれ主戦闘員の軍関係者約300人に分けられていた。しかし、No.1の中にもなぜか数人、兵隊と思われる人々が混じっていた。

軍関係者の中には駆逐艦や巡洋艦、飛行機乗りの生き残りが多かった。
みな丸坊主。服装はニュージーランドの兵隊の茶色の服を黒に染め変え、背中にダイヤ形の切り抜き、ズボンは左の腿と右の後ろに、ダイヤ形のつぎがあたり、胸と背中にナンバーの入ったものを着せられていた。
つづく
第23回は5月11日(火)の予定
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