第25回
 食堂は別棟になっていた。トイレは南側と北側にあり、川から水を引き込む流れを作って水洗にしていた。大便用は西洋式で、板に丸穴を開けた上に腰掛けるようになっていた。大便用にも小用にも扉も仕切もない、外から丸見えの小屋であった。一度に10人ぐらい入れる小屋が2つぐらい並んでいた。
   
 非戦闘員の人たちの収容所小屋も隣の第1キャンプの柵内に、これとほぼ同じ程度のものができて収容された。
 その頃から、われわれも少しずつ雑役をさせられるようになった。砂利とり作業、雑草とりが主だった。
「運動のつもりで作業にでてください」
 と通訳はいった。
 私は炊事場の薪割りを3人1組でしばらくやっていた。
 通訳のロバートソンは戦前、名古屋市で私立高等商業高校の英語科の先生をしていたことがあり、親日家だった彼をわれわれは「地獄で仏」に出会ったように慕った。彼は日本語を研究しており、日本の諺や難しい言葉があるとよくわれわれのキャンプへ聞きにきた。
 ようやくキャンプに慣れてくると、だれもが息抜きになる戸外への仕事を望んだ。キャンプ内の仕事ばかりさせられている者たちから、不公平だと不満が出て、交替にやるようになった。
 雑草とり作業では、休憩時間に野兎をつかまえたり、砂利とり作業の合間には、大鰻の集まっているところを見つけて釣をした。
 この大鰻を釣り上げるには、釘をまげて釣針を作る名人がいた。麻袋をほぐして糸を作ったが、鰻の鋭い歯に食いちぎられたので、次の時は釣針を15センチぐらいの針糸で縛りつけろと注文をつける者がいたり、竿は川の堤に生えている篠竹を使え、餌は羊のくず肉をもらって落ちないように糸で縛り付けようと言う者など、沢山の捕虜の中には、釣の経験者、知恵者いろいろな人がいて、その創意工夫が大鰻釣に生かされた。
 しかし、長さが1.3メートル、胴周りが30センチもある大鰻である、とてもひとりでは上がらない。2人がかりで大鰻と格闘のすえやっと引き上げた。長くて、太くて、重い上にヌルヌル、持ち帰るのも一苦労だった。またこれの料理がたいへんで、背を割くのも、焼くのも扱いにくかった。これほど大騒ぎをしたわりには、タレがなく塩焼きにしか出来なかったり、堅い横骨があったりで味のまずさに皆がっかりした。1個班12名でも食い切れず、隣の班の野兎の肉と交換する始末だった。それでも大鰻を釣り上げるという気分が楽しくて、各班競って川の砂利とり作業に出たがった。
 しかし、それでも精神病になり、死にたい死にたいと言って、わざと番兵の目の前で金網をよじ登り、脱走兵とまちがわれて撃たれて命を絶つ者もいた。
 また、こういう囲いの中にいると、外へ出たくなるのは人間の本能なのだろう、キャンプに燃料の薪を運んでくる車があって、山へ帰る車の下にぶら下がって逃げ出す者もいた。出たところで捕虜の特殊な服装、英語も話せないでは所詮また捕まって戻されることになるのがオチだが、やはりこの兵隊は本当に気がおかしくなっていたらしく、戻ってきても体罰を受けた様子もなくてすんだので全員ホッとしたこともあった。
 作業はいままで砂利運び、草むしり、道路整備など、各業種ごとに、3、40人ぐらいずつ出せばよかった。が、キャンプ内で捕虜たちが遊んでいると見て、収容所側はコンクリート作業に60名出せと新たに要求してきた。
 キャンプ内は騒然となった。
 これまで一日おきに休みがとれていたのにこの要求を容れては、ほとんど毎日稼業に出なければならなくなる。
 これはわれわれに対する締めつけだ!悪意ある制裁だ!と叫びはじめた。

                                 つづく

第26回は6月1日(火)の予定
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