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| いままでの稼業労働にしても、敵に荷担する行為で、われわれにとっては屈辱そのものだ。この敵に有利になる利敵行為をやるわけにはいかんという強硬意見と、また別に、捕まってしまっている以上、抵抗したところで無駄、ここは我慢をしようと言う意見もあり、お前はこの期におよんで命が惜しいのか、とキャンプ内でも対立が激しくなった。われわれの体はパン食とはいえ3度、3度食べているので大分回復してきたが、前々からくすぶり続けていた暴動計画までが、一挙に吹き出しそうな険悪な雰囲気になってきた。 1943年(昭和18年)2月25日の朝、稼業合図のラッパが鳴っても、昨夜キャンプ内で決めた通り、240数名の下士官、兵隊、徴用工員が幕舎と幕舎との間の広場に集まって座り込んだまま動こうとはしなかった。 フェザーストン捕虜収容所の所長は、英国の士官学校を出た若く血気盛んな新任中尉であった。自分の後ろへ小銃を持った兵隊を数十人従わせ、一段高くなった通路に立って大勢の捕虜たちを見おろしながら、 「私はドイツ戦線にいたが、ドイツ、イタリーの捕虜はわれわれの言うことをよく聞いた。それに比べて日本兵は命令を守らず全く生意気である。」 と、声を荒げた。 座り込みは仕事のサボタージュで、これをそそのかした奴がいるはず、キャンプのナンバーワンと話し合いをするからと宮崎兵曹が呼び出され、収容所の兵隊4、5名に囲まれるようにしてそのまま拘束、監禁されてしまった。 ニュージーランド側は、ボスさえ監禁すれば捕虜たちはおとなしく動くと簡単に考えていたらしい。 しかし、日本兵のほうは、穏健派もここは心情として彼等の意のままになるわけにはいかない。強硬派とともに座り込みをつづけていた。 収容所側は頑強に動こうとしない日本兵に業を煮やし、トイレの屋根や洗面所の屋根などの上に自動小銃を持った兵隊を、4、5人ずつ配置して、われわれを威嚇しはじめた。 こうして対峠しているわが方の中に、何時入ってきていたのか定かではないが、士官の安達敏夫少尉がいた。 この安達・特務少尉は1942年(昭和17年)10月、ソロモン諸島のサボ島沖海戦で沈没した巡洋艦「古鷹」の三番砲塔(20センチ砲二門連装)の砲台長だった。沈没後、駆逐艦「初雪」に救助された者もいるが、漂流中敵艦に捕まってしまった1人だった。この座り込みの中には「古鷹」の部下が70何人もいて、捕虜の中では最上官であった。 安達少尉は、座り込んでいる全員に、あくまで話し合うのだ、収容所側が何もしないうちに手出しをしてはならないと、大声を張り上げてきつく言い渡していた。 ニュージーランドの将校が、安達少尉にゲイトの方まで来るように言った。が、古鷹の部下たちが安達少尉を取り囲んで行かせようとしなかった。 安達少尉は、宮崎兵曹のように話し合おうとだまされて、拘束されるのを避け、 「話し合いならここで、皆の前でやれ」 と先方へ叫んだ。 ニュージーランドの副官と将校は安達少尉を逮捕し、柵の外へ連れ出せと兵隊に命じた。座り込むわれわれをかきわけるようにして、兵隊2人が入ってきた。 安達少尉は、所長の副官らしい男が、44口径のピストルをこちらへ向けているのを見て、 「撃つならおれを撃て!」 と大声で叫んだ。 副官は脅しのつもりだったのであろう、安達少尉をはずしてバーンと一発撃った。が、その弾が後ろにいた古鷹の三等機関兵の眉間にあたって、もんどりうって倒れた。 われわれはポケットへ詰め込んでおいた石ころを握って立ち上がり、ニュージーランド兵に向かって一斉に投げながら、所長や副官めがけて240数人が突進した。 相手は恐ろしくなって自動小銃をダダダダダッとぶっ放してきた。 全員伏せた。が、また立ち上がった。 また撃たれて、ばたばた倒れた。 私は左手首の上をバシッとなにかで叩かれたような気がして、その場に立ちすくんだ。後ろから撃ってきた小銃の弾が、前に貫通していた。服に穴があき、冷たいものが腕から滴り落ちるのを感じた。左手の平に血がゆっくりと流れてきたので、持っていたタオルで急いで縛った。 つづく 第27回は6月8日(火)の予定 読み終わったらこのウィンドウは閉じてください。 |