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| 代えて貰えない包帯の下からは、膿が流れはじめ、彼女を殴った者は皆から大いに恨まれる破目になった。 殴った男は英語のできる患者に連れられて、看護婦中尉のところへ詫びに行き、なぜ殴ったかを日本の慣習によって説明して、平身低頭、誠意をつくして謝った。 中尉も初めて風習のちがいを悟ったらしく、翌日から態度もがらりと変わってやわらかく親切になり、また治療をしてくれるようになった。 殴った方の男は、今度はかえって彼女から「男らしい男」と思われるようになったらしく、消灯になると、この看護婦中尉に車付きベットごと何処かへ連れ去られ、朝になると戻っていた。 看護婦中尉殿は特にこの大和男子にご執心になったようで、その後、彼の枕元にはリンゴやチョコレートなどが絶えなかった。戦争の蔭に咲いたちょっと羨ましいエピソードとしてここに紹介した。 事件後 私は腕に13センチの引きつった傷跡を残して、キャンプに戻った。 キャンプ内は、仲の良かった班員が病院から戻らずに、あいつが死んだ、こいつが死んだという話で静まり返っていた。これ以後、反抗しようと言う者はいなかったようだ。 事件後、捕虜条約に従って、1カ月に1度、国際赤十字のボッサード博士が収容所の見回りにやってくるようになった。 事件当時のキャンプの所長は更迭され、ニュージーランドの現地人、マオリ族出身の少佐にかわった。その後、われわれの方が少々自分勝手と思えるような不平不満までボッサード博士はよく聞いてくれ、キャンプ内は徐々に改善されていった。 例えば、日本人はパンでは力が出ない、米の飯を食わせろ、魚も食べたいといえば、1週間に1回出るようになった。また、夜中にニュージーランドの兵隊が一人番兵に立ち、淋しくなったのかハーモニカを吹いた。その音がうるさくて眠れないから止めさせてくれと言えば、すぐに誰が吹いていたかを調べ上げ、所長自らが善処するようにしてくれた。 ボッサード博士はわれわれに故国へ手紙を出して、家族へ無事でいることを知らせて安心させなさいと、しきりに勧めてくれたが、われわれは笑うだけで、誰一人出す者はいなかった。日本軍兵士として、捕虜になっていることなど、故国へ知らせるわけにはいかなかったし、偽名で出すわけにはいかなかった。西洋人は捕虜になっても故国へ手紙を出すのかと、日本人とのものの考え方のちがいに驚かされた。 ニュージーランド側は事件以来、われわれと以前よりずっと親しく接するようになっていた。規則はあるにはあるが、以前ほどうるさくはなかった。 一日置きの作業が始まっていたが、雑草とりでつかまえた針鼠を飼う者がいたり、蜜をとるのだと蜜蜂の巣を持ち帰った者がいても、ニュージーランド側はとがめだてしなくなった。 キャンプ内ではアルコール、切れ物一切禁止であったが、また暴動が起きたときには今度は素手では戦えないと、作業労働で外へ出たときに拾ってきた鉄製の金具で、30センチぐらいの短刀(あいくち)のようなものを各人がつくりはじめていた。 刃物造りは、ニュージーランド兵が恐がって絶対に入ってこない夜、電気もないなかで行われた。食事であまらせたバターを缶に溜込んで布を浸し、火を点けてロウソク代わりにした。窓へ服を掛け、あかりの漏れを防いで刃物造りに懸命になった。 つづく 第29回は6月22日(火)の予定 読み終わったらこのウィンドウは閉じてください。 |