第2回

(光人社刊・亀井宏著「ガダルカナル戦記 第一巻」)によれば−

 ガブツ港は、ツラギ港の東に隣接した好錨地で、長さ67メートルの桟橋その他の港湾施設があった。マカンボ島には桟橋および給水施設のほか、小型船舶用の船台(造船の際、船体をのせる台)があった。シドニーからの定期船がほぼ六週間ほどの間隔をおいて、これらの島に寄港した。
 当時、右の島々を占領していた日本軍兵力は次の通りであった。
 ツラギ島=第八根拠地隊麾下(きか=配下)の第八十四警備隊約200名で第十四設営隊の一部88名、その他56名で、八十八警の一部50名がガブツ島に防備のため派遣されていた。指揮官は鈴木正明中佐であった。
 ガブツおよびタナンボコ島=第五空襲部隊麾下の横浜海軍航空隊約400名(一部欠)と第八十四警備隊派遣隊50名。米軍の反抗のあった8月7日当時の航空兵力は、九七式大艇7機と二式水上戦闘機9機であった。
 右方面の主要装備兵器は8センチ高角砲6門、13ミリ機銃6基であった。
 7日の早朝、連日暗雲にとざされた哨戒飛行の隙間をぬって突入してきた敵艦載機による第一波攻撃で、水上基地にあった飛行機が不意をつかれ潰滅状態になった。敵はカブツ島北東海岸めがけて上陸用舟艇をくり出してきた。3回にわけた波状の上陸であった。ほぼ一個大隊の兵力である。
 日本軍は上陸してきたこの敵に対し、ガブツ島148高地およびタナンボコ島高地の両陣地から、はさむような格好で集中砲火を浴びせた。とくに121高地からの迎撃は、敵の背後から撃つかたちとなって、効果は大きかった。
 タナンボコ島に対する海と空からの敵の攻撃は、7日の昼間からはじまっていたが、上陸部隊が進撃してきたのは、夜になってからである。舟艇六隻に分乗してきたが、そのうち3隻分の兵士がこの短い時間に戦死したといわれている。午後8時頃の戦闘であった。
 右の失敗にこりた敵は、翌8日になって2個大隊をツラギとカブツ、タナンボコにふりわけて投入したのであった。
 上陸した米軍は、ガブツ島148高地にたてこもって、最後の抵抗をこころみようとする日本軍守備隊をしだいに追いつめると同時に、午後2時すぎになってさかんな艦砲射撃の支援のもとに、一個大隊をタナンボコ島におくりこんだ。この部隊は、二輌の戦車を先におしたてて進んできた。
 日本軍兵士たちは、この戦車に対して、ほとんど素手で立ち向かわざるをえなかった。戦車の厚い鉄鋼板にたいして、小銃は無力である。鉄材あるいは丸太のようなもので前進を妨害し、ガソリンをしみこませたぼろ布をもって炎上させ、擱座(かくざ)せしめようとした。横浜航空隊指令・宮崎重敏大佐ら幹部は、このとき、戦車にたいして肉薄攻撃をかけ、のちに全員が戦死したのだろうとされている。
 こうした戦闘をくりかえすうち、敵はタナンボコ島南端に橋頭堡(きょうとうほ)を確保し、兵力をあつめた。指揮官をうしない、重要な陣地をうばわれながら、日本軍兵士はなお珊瑚礁や洞窟などにひそんで抵抗をつづけた。
 タナンボコの日本軍が完全に沈黙したのは、翌9日の払暁であった。ガブツ、タナンボコ方面の捕虜27名という記録がのこっている。また、ツラギ島の場合とおなじく、約70名ほどがフロリダ島に脱出したといわれている。ただしこれはこの方面の戦闘に従事した米軍兵士の間にささやかれた口碑(こうひ)にちかいものであって、人数およびそのゆくえなど、正確なところは、今日にいたるも不明である。いったんはフロリダ島に渡った物がいたことは事実であったにせよ、死んだか捕虜になったのであろうというのが、この戦闘にたいする今日の大まかな結論である。

 以上のように記されているが、「浜空」で生き残ったものは宮川政一郎・一等整備兵と私のほか数名だけであった。たまたまこの数日間、海上は暗雲が立ちこめて、わが哨戒機(敵の襲撃を警戒する飛行機)の索敵活動をさまたげていた。この島を標的にした敵航空母艦がその間隙をぬって接近し、不運にもわが方の発見が遅れて、取り返しのつかぬ致命的結果を招いた。早く探知できなかったことが残念でならなかった。













運命の日













空襲・見張り



 星野軍医長のいる士官室は南方特有の住居で高床式であった。縁の下はちょっとかがめば頭がつかえない程度の高さがあって、風通しがよく広々としていたから、私はそこへ折り畳み式の簡易ベッドを持ちこんで、寝起きをしていた。
 運命の日、昭和17年8月7日早朝4時すこしまわった頃、爆音がした。
 当時わが軍には、九七大艇(偵察機)7機と向い側(フロリダ島側)の海岸を基地にして水戦(二式水上戦闘機)9機が待機していた。
 わが軍の九七式が上空哨戒に出るのは通常5時すぎ、私はそれと間違えていた。
 今朝は、馬鹿に早いなと思った。しかし、われわれの機はプロペラ機なのでポロポロという音、キーンという耳馴れぬ金属音にハッとして外へ飛び出し見上げると、星のマークをつけた米軍機が、敵飛行士の眼鏡をかけた姿まで見えるほどの低空で、飛び去っていった。急いでチンケース(海軍では石油など燃料を入れる一斗缶をこうよんでいた)をがんがん叩いて「敵襲!」と叫びながら総員起こしをしてまわった。
 こちらからは見通せないフロリダ島の西側海域に敵の航空母艦がいて、山越えに朝靄のなかを低空で偵察にやってきたのだった。
 私は士官6、7名とともに士官壕へ急ぎ入った。
 敵偵察機が引き返して5分から10分後、グラマン戦闘機の編隊が次々と現れて、爆撃と銃撃を繰り返し、辺り一面、地獄さながらの様相と化した。
 大艇は海上のあちこちに繋留されていた。搭乗員はゴム艇(ゴムボート)に乗って機に乗り移ったときにグラマンの一斉銃撃にあい、飛び立とうとしていた機は火を吹いて炎上し、乗員はみな大火傷を負った。
 虎の子の水戦もこのとき、一機も飛び立てずに全部銃撃でやられてしまった。
 敵機は、空母に戻っては爆弾をつみ、爆撃をなんどもくりかえした。
 また、駆逐艦がガダルカナルの西からツラギの方へ入ってきて砲撃をしかけてきた。
 私の入った士官壕はツラギ、ガダルカナル方面がよく見える海側にあったので、敵艦側からも士官たちの出入りがまる見えだったのだろう。格好の標的にされて集中砲火をあびた。朝の8時から10時ぐらいまでが爆撃と艦砲射撃とで一番ひどかった。士官ともどもこの壕にはいたたまれず、砲火の合間をかいくぐって走っては伏せ、走っては伏せながら反対側の大きい壕に避難、一旦全員集結した。
 ツラギへはこちらより先に、何百パイと思える敵の上陸用舟艇が走っていくのをわれわれは見ていた。この時は、勝田副長(中佐)が参謀格になって作戦を立て、隊員に命令をくだした。
 敵は今夜こちらへもきっと上陸してくる。士官壕側の海辺はサンゴ礁が遠浅のように広がっていて、舟の腹をけずってしまい上がってはこられまい。上陸地点はむしろわれわれが今いる大きい壕側、波止場側から上陸してくると予測していた。
 空襲のやんだとき、あちらへ何個、こちらへ何個と上陸してきそうな波止場や海辺へ、200リッター入り燃料のドラム缶を全員で急ぎ配置した。
 私が近くの発電所付近にドラム缶を並べて戻ったときには、火傷を負った重傷の搭乗員たちが壕の中に横たわっていて、もう入る余地がなかった。身を裂く苦痛にうなっている者や、上官の中には軍医にどこを切ったら楽に死ねるか自決の方法を聞く人もいた。
 私は壕内に入れずもたもたしていた。宮川ともう一人も入り口からはみ出たような格好でいた。なんの因果関係のない三人がたまたま入り口でもたついていたばかりに、司令の勝田副長から
「お前ら、けがをしていないなら向の壕で見張りをしていろ」
と六倍の双眼鏡を渡されたときは、中にいれてもらえないくやしさと、多くの戦友たちとはなればなれになる心細さ、またあの集中砲火を浴びはしないかの不安とで、身のちぢまる思いがした。命令なのでしかたなく、宮川一等整備兵と私ともう一人の3人だけが、弾雨の中をもとの壕へもどった。

     
 この時が運命の岐れ目になった。
 その夜8時か9時ごろ、勝田副長が予測したとおり、米軍の上陸用舟艇は、こちらに悟られないように、途中からエンジンをきって襲来した。
 われわれ航空部隊は、陸上で戦うための武器をほとんど持たされていない部隊だった。
                                  つづく
                       第3回は12月22日(火)の予定

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





















































































その頃戦局は


1942年(昭和17年)
8月 7日
米海兵1個師団、ソロモン諸島ツラギ、ガダルカナル島に上陸

   8日
第一次ソロモン海戦。外南洋部隊の重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻、米海豪連合水上部隊重巡他26隻と交戦。

  18日
一木支隊先遣隊、ガダルカナル島上陸。

  19日
一木支隊主力、攻撃開始。

  21日
ほとんど全滅。

  24日
第二次ソロモン海戦。
ガダルカナル島増支援機動部隊、米機動部隊と交戦。

  25日
第27駆逐隊陸戦隊、ナウル島占拠。

  29日
川口支隊その他、ガダルカナル島へ増援開始。