第34回
 12月31日の夜だったと思う。
 ウェリントン港から3隻のLST(上陸用舟艇)に分かれて乗せられた。
 船は箱船のようになっていて、戦争中は戦車を積み込んでいる船底のようなところに、ずらりとベットが並んでいた。両側にも蚕棚のようになったベットがあった。便所はエレベーターで甲板へ上がり、船の軸先にあった。シャワーもあった。

     

 船は米軍の管轄だった。
 日本はどうなったのか、われわれはこれからどこへ連れていかれ、どうされるのかの説明がないまま船は動き出した。また日露戦争の時の捕虜は終身労働をさせられた話が出たり、日本へ引き渡され浦賀に上った後、敵の捕虜になったという罪で、どこかへ連れていかれるのだ、などと言い出す者もいたりして、しだいに不安が募っていった。
 食事はすべて缶詰、たまご焼きチーズも缶詰であった。チーズ缶は臭くて日本人にはあわなかった。海へ投げ捨てる者もいた。以後、私は捨てるくらいならと、貰ったり、ほかのものと代えたりして、いくつも古い靴下に詰め込んだ。もし本当に家に帰れたら、なんの土産もないのだから、せめてもの記念品、手土産にしようと思った。
 食器、水筒、これは大きいので湯たんぽにも使えた。靴はニュージーランドの編上げを一足予備に持っていた。使いふるしの毛布、継ぎはぎだらけの外套も持ってきていた。
 船の中ではなにもすることがなく、暇と不安とで苛立つばかりだった。
 敵を困らせてやろうと、張り巡らされている電話線を切るいたずらをなんどもした。
 島だ!という声に海上を見ると、雲だったことが何度もあった。
 最初に見た島はグアム島らしく、大分日本に近づいてきた。ここで2、3日停泊した。
 3隻目のLST舟艇が横波をくらって船にひびが入り、新しい船に乗り換えた程度のことはあったが、大したこともなく順調に航海がつづき、すでに30日以上がたった。
 赤道直下を離れ、北上するにつれて気温がどんどん下がってきて、詰め込んできた下着を何枚も重ね着した。




星条旗

 気温がますます低くなり、収容所で着ていた衣服まで着込んだ。
 いよいよ日本へ近付いていることを肌で感じた。
 小笠原諸島の父島へ着いたとき、ここは日本領土のはずなのに星条旗が翩翻(へんぽん)とひるがえっているので、これはどういうことだと騒いだ。が、米軍は何も答えなかった。

 船が入った浦賀港にも、いたるところに星条旗がひるがえっていた。
 出迎えにきたダルマ船の船頭にどうしてなのかと尋ねた。
 日本は「無条件降伏したのだ」と、初めてここで聞かされたのだ。
 しかし、無条件降伏の意味が、咄嗟に理解出来なかった。誰も急に黙り込んでしまった。
 われわれは一体これからどうされるのか、日本軍から「生きて虜囚の恥」を罰せられるのか?不安でたまらなかった。
 その頃の復員船の兵隊は、食料不足で体が衰弱しているのがほとんどで、担架や人の肩をかりなければならない者が多かったそうだ。が、われわれは人一倍元気で、体力があり、自力で大きな荷物を担いでダルマ船に乗り移った。しかも菱形のつぎの当った服装が異様である。
 船頭さんに不思議がられ「兵隊さんどこから帰ってこられた?」と聞かれた。
                                 つづく


第35回は8月3日(火)の予定
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