|
|
|||
| 浦賀は、私が戦地へ送られる前に、8か月間勉強した海軍工作学校のあったところだ。 横浜海軍航空隊のほとんどが戦死してしまったというのに、私だけが何の因果か戦死もせず、餓死もしないで、ここへ再び戻って来ることが出来た。 忘れもしない1945年(昭和21年)2月3日、船は浦賀の岸壁へ無事に着いた。 おお、懐かしい祖国だ!日本の土だ!われ知らず涙がポロポロ出て、泣けてしかたがなかった。 浦賀を出て、実に3年8か月ぶりの帰還であった。 感無量であった。短い期間ではあったが、さまざまな悲劇があった。地獄があった。 あり過ぎた。何回か死生の境をさ迷った。 軍は陸、海軍とも解散させられたという。 それなら、われわれを処分するところがないはずだ。 ホッとした。 私のいた工作学校が新しくできた「復員局」の一時収容所になっていた。 このまますぐには帰してもらえなかった。 ニュージーランドの収容所での事件については、安達少尉が代表で調べを受けていた。 ここで一人一人事情聴取を受けることになったとき、偽名のままでいたほうがいいのでは、と迷った。捕虜であったことがバレると、日本でどんな扱いを受けるか不安だった。親兄弟まで近所から後ろ指さされることにならないか、それを心配した。 軍籍簿にある私の名も、戦友の名にも「戦死」と赤字で書かれていた。 復員局から住んでいた地区町村役場へ通知を出し、返事が来てからでないと帰れないことになっていて、5日間ごろ寝をしながら足留めをくった。ここではじめて、日本全土が至るところ空襲の被害をうけ、特に広島、長崎が原子爆弾でやられたこと、わたしの故郷、東京も全市内が空襲で焼土と化したことなどを知り驚いた。家族の安否も気づかわれた。 軍籍簿の本名 やはり、軍籍簿に戦死となっているのを書き替えないと戸籍を復活することができないらしい。本名を名乗るしかなかった。 私は横志工2087(横須賀鎮守府 志願工作科)横浜海軍航空隊3等工作兵、桜井甚作と本名を名乗った。調べられた後、捕虜だったからといって別に心配していたようなことは何も起こらなかった。仲間同士、実はとここで初めて本名を名乗りあい、お前も、お前もやはりそうだったかと、笑いあった。 帰宅の際、これまでの服装は脱ぎ、夏服を支給されてこれに着替えた。ニュージーランドからずっと履きつづけ、ピカピカに磨き上げた靴は、進駐軍に見つかると取り上げられるといわれ、これも支給を受けた地下足袋に履きかえた。 兵隊には全員300円の金銭と、どこまでも乗って帰れる全国共通の交通無料キップ、5食分のカンパンの支給があった。 北海道や九州へ帰る者がいた。みんなこのまま別れればいつまた会えるか分からないので、近くの汁粉屋へ入って送別会をすることにした。入って汁粉の値段に驚いた。以前一杯5銭だったが、25円になっていた。 闇屋がしつこくくっついてきて、われわれの持って帰ってきた毛布を高く買うから売れという。北海道へ帰る一人は、物価の値上がりに驚き、たった300円ばかりを家へ持ち帰ってもどうにもならない、と毛布を売って金に替えた。 横須賀線は空襲で破壊されたまま、まだ、復旧作業ができていないところがあって、途中何度も降りては山越えをして歩かなければならなかった。 つづく 第36回は8月10日(火)の予定 読み終わったらこのウィンドウは閉じてください。 |