第36回
俺だよ

 池袋界隈も見渡すかぎり焼野原だった。ここでも空襲で死んだ人たちが沢山いたはずだ。これから電車に乗って15分ほどで着くはずの実家も、焼けて無くなっているか、家族の誰かが死んでいるかもしれないと、不安な気持ちになった。
 電車はところどころ入口にドアのない車輌があり、幅の広い板が立つ人の胸のあたりと足許に打ち付けてあって、乗り降りはこの板を潜ってしていた。
 江古田駅を出て次が私の降りる桜台駅だと入口で立っていると、停車しないでそのまま通過してしまった。駅に近い実家は通過する電車の中から、まだ残っているのが見えた。
 その頃桜台駅は一時休止状態にしてあったようだ。あわてて次の練馬駅で降りた。
 練馬駅近くには長姉がいて、養鶏の飼料を売る店をやっていた。そこへ寄れば実家の様子も分かるだろうと、先に立寄っていくことにした。
 声をかけると姉が出てきて、夏服に地下足袋、大きなずた袋を背負った私の顔をじっと見ながら、
 「どちらさんですか?」
 といぶかし気にたずねた。
 「俺だよ」
 というと
 「えっ?」
 といったきりじっとこちらを見詰めたままでいる。
 姉の長女が出てきて
 「じんちゃんだ!」
 とさけんだ。
 姉は
 「じんちゃんは戦死して、葬式を出したじゃないか」
 と云った。
 長女は自転車で実家へ知らせに走った。
 家中大騒ぎになった。
 帰った家では母が元気でいて、私の異様な姿を上から下までじろじろ見ながら
 「お前は死んだ事になっているのに、一体どこにいたんだい?」
 とびっくり声で云った。
 母はまだ半信半疑の様子で、ただボーと私に顔を向けて立ち尽くしているだけだった。
 父は田柄町の上野さんへ木を切りに行っていた。長女がまた走って知らせに行くと、父は上野さんに、慌てて帰って怪我をしないようにといわれ、仕事をほったらかして帰ってきた。私の顔をじーと見ていた父は
 「これでいいや……」
 と一言いったきりで、目をパチパチやっていた。
 父は区役所から遺族への扶助料が届けられると
 「金は働けばできるが、息子は帰らねぇ。そんなもの貰っても仕方ねぇ」
 としきりに云っていたそうだ。
 「これでいいや」
 は、金ではなく息子本人が帰ってきたのだから、俺は大満足、
 「これでいい」
 と喜んでつぶやいたのではないかと思う。



易者

 父は自宅へ私の戦死の公報が届いた時、信じたくない一心から、あちらこちらの易者に私が生きていないか見てもらいに歩いたり、私が酉歳生れで、守り本尊が不動明王ということから、成田のお不動さんへお参りに行ったりしたそうだ。
 ただ、豊島園の裏にいた占い師だけが
 「まだ生きている」
 と云い、袋ぐも(土蜘蛛)のような密閉された状態の穴かなにかの中で、多少腹はへらしているが生きていると、はっきり予言したそうである。
 母は母で、毎日蔭膳を欠かさずしてくれていたという。こうすることで、私が腹をすかさずにすむというわけだ。
 この話を聞かされたとき、占い師が私の置かれていた状態をよく当てていたのに驚かされた。私は神通力とか超能力とかは信じない方だが、私が助かったのは、もしかすると、親の『大きな愛の力』だったのではないかと思うようになった。
 親に連れられこの占い師へお礼に伺った。その後、よく当たる占い師と評判になって、特に戦死者の遺族が押し掛けるようになったということだ。
 死んだはずの私が帰還した噂を聞いて、地方からも戦死公報を受けている父や、夫や、息子のことを、もしやと尋ねてくる人が多くなった。父は、こういう客の対応に忙しかったせいもあるが、私が帰ったショックと喜びで、1か月半ほどは仕事が手につかなかった。
 親戚が入れ代わり立ち代わり来ては、座っている私に、足があるかどうか、立って見せろとよく云って私を苦笑いさせた。人が信じられないのも道理で、本人の私でさえ信じられないでいるのだから。
 家に残していた衣類や自転車まで、私のもの一切が弟の物になっていた。物不足のこの頃、弟に返せとも言えず困りはしたが、そんなことは大したことではなかった。
 私は畳の上で大の字に寝そべって目をつぶっているとき、ふと何ものかに揺り起こされ飛び起きることがあった。そんな時、本当に我が家にいるのだろうかと不審に思ったり、暫くの間、私のからだが宙に浮いているような錯覚を何度も起こす事があった。



                


次回、後日章は8月17日(火)の予定
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