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あの壕は、今 元・国際協力事業団専門家 元・石川島播磨重工業株式会社勤務 嬉 昌夫(ソロモン諸島国1995年まで在住) 1. ガダルカナル戦以前のツラギ地区 日本軍がツラギ地区に上陸した1942年5月以前のツラギ地区は、ツラギ島、ガブツ島、タナンボコ島、マカンボ島の四島が一体となった形で貿易港を形成していた。 当時、ツラギ島(長さ約3キロ、幅約0.8キロ)がイギリス総督府の所在地で、ソロモン群島の政治経済の中心地であった。小高い緑に囲まれた丘の上には、赤色屋根の白亜の政庁舎や政府高官の家屋と、島民家屋が建ち並び、非常に美しい眺めだった。島の北東にある港(現在の国営造船所第2工場)には3000トンクラスの船の接岸が可能な桟橋、事務所、倉庫などが建ち並んでいた。南東地区にはクリケット場、小ゴルフ場、テニスコート、病院、住民の居住区、刑務所などがあり、島の北側には中国人居住区もあった。また、ガブツ島、タナンボコ島、マカンボ島、(各々長さ2〜300メートル、幅100メートルぐらいの小島)には、貿易会社の事務所、倉庫、住宅等があって小さな町を形成していた。 1931年当時の人口は、ソロモン群島全体で約94700人。うちツラギ島は隣接するフロリダ島を含めて約55000人、ガダルカナル島は約14400人。ガダルカナル島の原住民は、支庁舎のあったアオラ地区に多く住んでおり、戦闘の中心となったルンガ地区から約50キロ東に離れていた。またツラギ島には欧州人が約100人、中国人が約180人と記録に残されている。 ツラギ港は天然の良港で水深も50メートルと深く、周りを島に囲まれて波静かな内海を形成しており、ツラギ島とガブツ島には3000トンクラスまでの船が出入りしていた。当時の主産物はココナツ椰子で、年間約1万トン産出されたとの記録もある。 2.ツラギ地区、米軍上陸時の戦闘経過 1942年8月、呉の海軍陸戦隊約400人及び設営隊約70人の日本軍がツラギ島に上陸し、ガブツ島、タナンボコ島には、横浜海軍航空部隊約400人と呉の海軍陸戦隊の一部約50人が上陸防備していた。ここは日本軍の最南端基地であった8月7、8日の2日間の戦闘で日本軍は玉砕したが、当時の戦闘の日本側の記録は、現在防衛研究所図書館にわずかに残るのみである。そこで、米軍の記録と現地調査をもとにして戦闘の概要を推測すると次のようになる。 8月7日午前8時、米軍はツラギ島の南西地区に上陸を開始した。同時にツラギ島の南側の上陸予定海岸丘(米側呼称204高地)付近に約1700発の艦砲射撃を行った。当時の日本軍陣地は、島の東側のクリケット場の後ろの丘281高地が中心で、米軍上陸地点は無防備の状態であったらしい。上陸した米軍は3手に分かれ、1隊は島の南側海岸ぞいに東を目指し、1隊は島を横断して島の北側セエサアペ地区に出て北側海岸ぞいに東を目指した。残りは島の中央部分の山の稜線ぞいに東に向かった、と資料には残っているが、現地を見るかぎり中央部の山は切り立った石炭岩の険しい山並みなので、結局島の南側と北側から東を目指し、中央部の山に入り、攻撃した。 7日昼間の日本軍の反撃は散発的で、本格的な反撃はその夜から行われた。米軍の中央隊に対し夜襲を敢行し、果敢な攻撃は一時米軍を押し返し、司令部付近まで迫っている。米軍はその夜ゴルフ場付近に展開し、狐孔(タコツボのこと)を掘り、一夜を過ごしている。だが、8日の日の出と共に主に南側海岸ぞいと北側海岸ぞいから日本軍を圧迫し、最後は281高地の洞窟に立て籠もっている日本軍と激戦を行っている。8日夕方にはほぼ激戦は終わったが、日本軍の激しい反撃で米軍の戦死者は100名以上にも達したといわれる。日本軍は全員玉砕であった。(米軍側資料によると日本軍の捕虜10名との記述もある) つづく 次回は8月24日(火)の予定 読み終わったらこのウィンドウは閉じてください。 |
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