後日章
第37回

[特別寄稿]
『あの壕は、今』
(前回の続き)
 さらに米軍は、ガブツ島に7日正午に上陸。巡洋艦と駆逐艦群による艦砲射撃がガブツ島、タナンボコ島に対し猛烈に行われ、両島は丸裸になるほどであった。続いてタナンボコ島に7日夜、上陸を試みた。夜陰に乗じて、舟艇6隻に分乗した米軍は島の北西部の横浜航空隊が主要基地としていた砂浜海岸へ殺到した。日本軍はここに簡易桟橋を海側に張り出し(筆者の調査では今は桟橋の跡形もない)、航空燃料ドラム缶を積み上げていた。米軍の舟艇が桟橋に近付いた頃、ドラム缶が火炎を起こし夜空を赤々と染めた。日本軍はこのチャンスに猛射撃を加えさらに突撃した。米軍は大混乱し、3隻の舟艇を残しほうほうの態で退却した。8日午前米軍は猛烈な艦砲射撃と爆撃を加え、午後にはガブツ寄りの海岸線珊瑚礁ぞいに攻撃を仕掛けてきた。
 日本軍は十分に米軍を引きつけての一斉射撃を行い、米軍は動けずに後退した。夕方米軍は水陸両用戦車3台を先頭にガブツから珊瑚礁の海岸を渡って来た、十分引きつけての日本軍の突撃は玉砕覚悟の捨て身の戦いであった。戦車は次々と擱座し、火炎瓶で燃え上がったと記録されている。またしても米軍の攻撃は阻止された。しかし、横浜航空隊の戦力ももはやこれまでであった。最後の止めはその後、米軍の巡洋艦、駆逐艦による至近距離からする艦砲水平射撃であった。米軍はこれまでの戦闘で日本軍の戦力と洞窟陣地の位置を知り、洞窟を直接砲撃したのである。ここにおいてさしもの戦闘も8日夜まででほぼ終わったのである。
 この戦闘で日本軍は玉砕したことになっているが、実は桜井氏のように生き抜いた日本軍人が複数いたわけである。

3.ソロモン諸島国及びツラギ地区の1992年の状況
 1945年戦争終了に伴い、ヘンダーソン飛行場の平和利用のために、首都をツラギ島から対岸のガダルカナル島のホニエラ市に移した。さらにソロモン群島は1978年英連邦の一つとして独立した。かつて日米が死闘を繰り広げたヘンダーソン飛行場が、今この国の表玄関としての国際空港として活躍している。
 ソロモン諸島国の総人口は約34万人、大部分はメラネシア系(94.2%)で、ガダルカナル島約8万人、ホニエラ市約35000人、ツラギ島約2000人、ガブツ島、タナンボコ島、マカンボ島は0である。ツラギ地区に限っていえば、50年前の方が遥かに栄えていたといえる。ツラギ島には今、国営造船所2か所と漁業会社のみで、小さい小物店が3軒あるだけで、往時の首都をしのぶよすがもない。またツラギ島に約180人いた中国人は、ホニエラ市に移り、中国人街形成の中核として活躍した。現在はその子孫及び新たに移住した中国人(台湾系)の経済力は、この国で大きな存在となっている。
 ツラギ島にかつてあったゴルフ場は、島民のスポーツ場に。クリケット場は教会と住民の住宅地となっている。昔の総督府関係建物のあった同じ場所に、州政府が庁舎を置いている。またかつてあった大病院や、刑務所は今はなく僅かに土台のみが散見できる。そして港の設備の後が、国営造船第2工場となり、300トンぐらいの船舶の修理を行っている。さらに米軍が上陸直後作った西北地区のセエサアペ魚雷艇基地が、国営造船所第1工場となって100トン程度の船舶の修理を行っている。日本軍の洞窟は281高地付近に八か所確認されている。
 戦闘中丸裸となったガブツ島、タナンボコ島は今、鬱蒼としたジャングルに戻っている。1991年5月と8月、桜井氏の依頼でガブツ島及びタナンボコ島を調査した。その結果、ガブツ島には日本軍の洞窟1か所を発見し、岸壁には高射砲、海中には破壊された水上飛行機の残骸が確認された。タナンボコ島では洞窟5か所を発見した。桜井氏の入っていた防空壕と思われるものも発見した。タナンボコ島の北西部の3か所の洞窟は特に堅固で、防空壕を中心とした半径15メートルぐらいの所に、高さ4メートルの土手が半円状に築いてあり、この中にたて籠もった日本軍が圧倒的に優勢な米軍に抵抗したことがしのばれる。
 ガダルカナル戦において、重要な位置付けにあるツラギ地区に関しての日本軍側の証言は、前述の通りほとんどない。その意味でこの度の桜井氏の証言は、非常に貴重だ。特にタナンボコの戦いは、日本軍が太平洋戦争を通じて米軍の上陸を阻止した唯一の戦いであった。しかもこの日本軍が地上での戦闘を主任務としない、地上戦闘の訓練も経験もない海軍横浜航空隊の戦いであるがゆえに、驚嘆に値する。しかし、当時、大本営はツラギ、ガブツ、タナンボコの玉砕の事実を一切報道しなかったといわれている。

※ 参考資料  防衛庁戦史室、南太平洋陸軍作戦一 / Guadalcanal Diary by Richard Tregashis / The Battle of Guadalcanal by Samuel B, Griffith / ソロモン群島政庁(イギリス)発行統計資料 / 太平洋諸島年鑑(英文)1939年版
※ 筆者は、1992年現在、日本のODAの一環としてソロモン諸島国ツラギ島にある国営造船所の指導を行っている。

桜井さんがいたタナンボコ島
左のタナンボコ島と右のガブツ島を結ぶ橋のあと
ガブツ島岸壁、日本軍の高射砲と水上飛行機の残骸が今も残る
地獄の入口は今もあった!
桜井さんと宮川さんが入っていた小さい壕(通称、士官壕)の位置とほぼ一致するC地点の壕の跡。
あれから50年、地獄の入口を上からのぞき込むと、半分埋まった形で、今も不気味に口を開けている。
あの不発弾は?島主計中尉の軍票やトランクは、今も中に埋まったままなのだろうか?

      A地点の大きい壕

←桜井さん、宮川さん、ほかもう1人は負傷者で埋まったこの壕には入れず、勝田副長の命令で、C地点の小さい壕へ移った。この壕にいた宮崎司令以下、戦友たちは全員玉砕し、運命をわけた壕だった。

撮影/嬉昌夫
(1991年9月・1992年5月)
       D地点の壕跡
       E地点の壕跡

                                 つづく
次回は8月31日(火)の予定
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