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| ある寺の和尚さんが私の顔をじっと見て、 「貴方は地獄のような苦しみを体験されたことがおありですね。しかし、いまは、実におだやかで、仏様のようないいお顔をしておいでだ」 と、いわれたことがある。 これまでのいきさつを話すと、「なるほど」と感嘆された。このとき人間、生きるも死ぬも紙一重かもしれないな、と人生を悟った気分になった。 1977年(昭和52年)ニュージーランドで通訳をつとめた、K・ロバートソン氏へわれわれ捕虜仲間一同が、日本への招待状を送った。 ロバートソンは喜んで日本へやってきてくれた。東京の藤田保、斎藤智二、両氏の斡旋で、品川プリンスホテルに4、50人が集まり、盛大な歓迎会を開いた。 この後約1か月半、藤田、斎藤、田口対也、豊川の後藤重一氏らが付き添い、日本観光を楽しみながら山形、名古屋、神戸、広島の捕虜だった仲間との再会をはたした。 彼は日本の家庭で畳の部屋に泊まり沢庵、納豆を食べる親日家だった。戦前、日本の高等学校で先生をしていた人なので、日本の生活文化、習慣、日本人のものの考え方、人情、気質などにも精通しており、また人柄も良い紳士であった。 当時、日本人捕虜から信頼され、みんなから慕われていたので、捕虜だったわれわれ仲間が、お世話になったお礼にと皆が力をあわせてお世話をした。 日本の土産をたくさん持って帰った彼は、あれから2、3年後ぷっつりと音信が途絶えてしまい心配した。 われわれフェザーストン捕虜収容所から帰国できたものの悲願として、異郷の地で亡くなった同胞の慰霊碑を建てたいと以前から念じていた。 しかし、厚生省も外務省も、建てた後の管理に問題がある、として許可が出ないでいた。とこらが、ほどなく彼の地から、フェザーストン収容所近くのニュージーランド・フェザーストン・メモリアルピクニックエリア内に戦争記念公園を造りたい、ついてはこの地域での戦争関係国だった、ニュージーランドをはじめオーストラリア、米国、日本などへ寄付を要請してきた。日本への割当はベンチとテーブルであった。この機会に、慰霊碑も建てさせてほしいとわれわれが希望すると、小さいスペースならオーケーと回答があった。 われわれニュージーランド戦友会(元・陸海空の捕虜)と南星会(元・11、12設営隊の捕虜)が寄付金を出し合い、ベンチ、テーブルの費用のほかに『鎮魂』のプレートと芭蕉の句「夏草やつわものどもが夢の跡」のプレート、そして桜の苗木をまとめて送った。 除幕式は1979年(昭和54年)に地元市長、日本大使、市民によって盛大に行われた由だったが、このときわれわれは行かれず、残念であっ。 7年後の1986年(昭和61年)12月12日名古屋の後藤清氏の発案でついに墓参りに行くことになった。最初は10人ぐらいの予定であったが都合がつかず、結果は後藤氏、呉の安達敏夫氏、私の3人になってしまった。あまり少ないので私は家内を連れて行くことにした。 ニュージーランド墓参 フェザーストンはウェリントンから北方約70キロのところにあって、人口3000人の町である。 通訳のロバートソン氏はやはり亡くなっておられた。生前、彼が日本へ来てくれたときに、皆で歓迎できたことがせめてもの救いだった。 墓参りの当日は市長や地元民の参列まであって、しめやかに営まれた。 鎮魂の碑の前で、安達氏は白装束に袴姿でおごそかに祈祷をされた。われわれも共に亡き同胞の冥福を祈った。 われわれがニュージーランドへ墓参に行くと、現地の新聞は全頁をさいて大きく報道した。その時の新聞をご覧頂きたい。 (左)日本からの慰霊のための一式を持参した安達敏夫。元海軍特務少尉。 (右)新聞の見出しは『昨日の敵は今日の友』とある。写真上は戦没者への追悼(左より私、一人おいて後藤清氏、私の妻) フェザーストン捕虜収容所跡は、すでに民間に払い下げられて牧場になっていた。ある一隅には、いまだにわれわれを取り囲んでいた鉄条網が赤錆て、うずたかく山に積まれてあった。 食堂跡のコンクリート土台があった。お湯を沸かした釜の一部が朽ちて転がっていた。当時収容所を出る間際に、いろんなものを埋めたものが出てきはしないかとあちこち掘ってはみたが、何も出てこなかった。 われわれが座り込み、発砲事件のあった広場を探した。多くの戦友を一度に亡くした場所を何とかして探し当てたかったが、草が一面生えていていまは見当がつかなかった。 まさしく「夏草やつわものどもが夢の跡」であった。 軍曹だったトンプソン氏の家で、現地の人たちとの交歓会が開かれた。そこへ当時十八才で、病院の看護兵をしていたというステン・カール氏が大事そうに、ぺらぺらな紙に描かれた鉛筆画を五枚持って来た。中に鼻の高い外人の女の横顔と、ストリッパーの姿が描かれていた。その2枚の左下にはまぎれもなく私のサインがあったのには驚いた。富士山の下に偽名の「TANAKA」とあった。自分の絵のような気がしなかったが、私が負傷をしてアンザック特設病院に入院中、暇にまかせて雑誌から引き写したものらしい。青春時代の自分に突然出くわして、嬉しいような恥ずかしいような戸惑いを感じた。 ![]() 「これは私が描いたものだ」 というと、 「そうかお前か。これは家の宝だ」 といって何度も握手をするだけで、返してくれようとはしなかった。 しかし、画家でもない日本人捕虜の描いたものを、ニュージーランド人がこうまで大切にしていてくれるとは、一体なんの因縁であろうかと不思議に思った。 その後、彼は本物は返せないがといって、コピーを私の許へ送ってきてくれたので、それが今度は私の宝になって現在も所持している。 お国柄や顔かたち、皮膚のいろがちがっていても、お互い人間同士、人情には変わりがないことをつくづくおもった。 ![]() ステン・カール氏から送られてきた手紙と私の描いたスケッチのコピー。左下に当時使っていた偽名、TANAKAのサインがある。 [著者略歴] 私の歩んだ道 1921(大正10年)6月15日、東京に生まれる(酉歳) [昭和] 1927(2年) 4月 東京府下北豊島郡中新井村、村立豊玉尋常高等小学校入学 1936(11年) 3月 同校高等科卒業 4月 練馬区向山町冨士フィルム現像部入社 9月 麹町区丸ノ内 東京中央郵便局電信課 1938(13年) 4月 同局貯金課出納員 1941(16年) 5月 志願兵として、横須賀海兵団入団 10月 海軍工作学校入校・第七期普通科練習生(八か月教育に変更)
1942(17年) 5月 横浜海軍航空隊残留部隊配属・3等工作兵二週間後サイパン経由ラバウル本隊入隊 6月下旬 本隊前進。特務艦(最上川丸)にてソロモン諸島ツラギ基地へ進出(ツラギ、タナンボコ、ガブツ島周辺の基地) 8月7日早暁 米軍機の銃撃を受ける(米海兵一個師団タナンボコ島上陸後、一旦撤退) 8月8日昼間 米軍機の爆撃後、駆逐艦からの艦砲射撃による爆風でタナンボコ島の壕の入口が埋まり、宮川と2人だけ、50日近く閉じ込められる 9月 壕脱出、無人島へ泳ぎ渡る。翌日、西フロリダ島へ泳ぎ渡る 11月3日〜10日頃 現地人に捕まる。ツラギへ護送、2日間位ガソリン倉庫に入れられる 11月17日頃 ガダルカナルへ護送 12月頃 ニューカレドニア経由でニュージーランドへ護送 12月末 ニュージーランドのウェリントンからフェザーストンに護送 1943(18年) 2月25日 フェザーストン捕虜収容所 発砲事件 1945(20年) 12月31日 帰還船LSTでウェリントンからグアム島経由、小笠原諸島父島寄港 1946(21年)2月3日 浦賀へ上陸(元・工作学校の復員局で5泊) 2月8日〜9日 自宅へ帰還自宅の農業を手伝いはじめる 12月 農地改革による、農業委員会地区補助員 1947(22年)4月4日 田島トモエと結婚 1954(29年)4月 立教中学校 用務員勤務 1970(45年)4月 同校 事務員に昇格、理科の先生の助手、印刷業務 1986(61年)12月 ニュージーランド・フェザーストン慰霊碑墓参 1987(62年)3月 立教中学校定年退職[平成] 1993(5年)4月 [地獄からの生還]自費出版 あとがき あれから50年が経ち、いまさら戦争の話しでもないと思われるほど長い歳月が過ぎてしまいました。その間、私だけの「自分史」として誰しもあまり体験したことのない、戦争というものの悲惨さを書き残しておきたいと念じていましたが、私にはやはり“捕虜”になっていたという負い目が長くのしかかっており、書くのをためらっていたのです。 一緒に帰還した捕虜仲間の1人は、いまでも酒が入ると、肉親である親から「村には戦死した人の家族が沢山いる。うちの息子が捕虜になっていたなどと、不名誉で恥ずかしくて話せない。お前などわたしの子とは思わないから、どこかよその土地へ行って暮らせ」と勘当されかかった、と私によく云っていました。こんな訳ですから、私の戦争体験は息子たちにさえほんの一部分しか話をしていませんし、孫などは映画の時代劇ぐらいにしか思っておりません。 今では同年兵の会合などで、誰かから冗談に「お前は捕虜だったのか」と云われても、「何をいってやがる、こっちは内地でのほほんと暮らしていたのとは、ちょっとばかし違うんだ」と言い返せるようになりました。 私は復員後、1954年(昭和29年)に立教中学の用務員に就職しましたが、1987年(昭和62年)の退職まぎわに社会科の先生から「戦場の弾をくぐった体験者は、君しか学校にいないのだから」と請われて、2年生の生徒たちに太平洋戦争の体験を話したところ、その感想文に「いい冒険をしましたね」というのが沢山あって、思わずアッと驚きました。 あの頃、荒くれ男どもが勇敢に戦上で活躍するアメリカ映画が流行っていたせいもあったでしょうが、このままではガダルカナル、ニュージーランドで悲惨な死をとげた同胞、戦友たちのためにも黙ってはいられません。真実をありのまま伝えようと、堅く心に誓いましたが、そう思いながらもまたたく間に数年がたってしまいました。 このたび、ようやく念願かなって私の拙い筆による戦記を1冊の本にまとめることが出来ました。これもひとえに、蔭ながら私を励ましてくださった、多くの好意ある方々のご協力あったればこそと存じております。心から厚く感謝申しあげます。 1993年4月 櫻井甚作 完 長い間、ご愛読ありがとうございました。 読み終わったらこのウィンドウは閉じてください。 |
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