◇森本哲朗氏一行に加わっての、西アフリカ・ニジェール川探検紀行◇
              ▼連載のごあいさつ▼

 このたび、中高年の「元気が出るページ」で連載をしたいとの、思いがけないお話があり、ありがたくご承諾いたしました。
 ふとしたきっかけで私が初めて「西アフリカのニジェール川探検行」に参加したのは、57歳のときでした。「苦しい旅こそ愉しい旅」を信条とする森本哲郎氏と、ニジェール川の魅力にとりつかれて「寝袋」を持ってふたたびの「ニジェール、サハラ探検行」。そして、その後もわれながらあきれるように、アフリカへの旅を数回続けてしまいました。
 昨年喜寿を迎えた節目として、旅の記録を自費出版いたしました。近親者や知人友人のためにだけ印刷したものですから、部数も少なくもう残部も僅かになりました。そこへ今回のお話、私の知らない多くの方にお読み頂けるなんて、願ってもないことでございます。アフリカでの私の体験を、少しでも喜んで読み続けて頂ければ、この上ない幸せと存知ます。

                             室 井 光 子



 何がきっかけとなるかわからないものである。ほんの偶然ともいえる出会いから、思ってもいなかったことが、自分でも信じられないような速度と可能性をもって展開していく。
 私の旅は大体、こうした形で始まるのだった。アフリカ、しかも探検旅行に私が行くことになるなんて・・・・・当時の日記を繰ってみると、
 9月某日、買い物のついでに立ち寄った近所の本屋の店頭で、入ったばかりらしい新しい書籍を並べているのが目に入った。手にとって見ると世界探検全集5『マンゴ・パークニジェール探検行』であった。いつもの私からすれば読む気にもならないような書名なのだが、翻訳者森本哲郎・広瀬裕子訳にひかれてページをめくっているうち、ふと思い出したのは一年前の、パキスタン、アフガニスタンの旅でのことだった。峻険な岩山の道で小休止をしていた時、「今度、サハラ砂漠へ行こうと思っている・・・・・」
 と夢見るようにアフリカの話をされた森本氏の言葉が蘇ってきた。ときめくものがありパラパラとページをめくり、最後の解説に目を走らせると「来たるべき旅は、本訳書の確認、或いは訂正の旅になることと思う」と書かれていた。あの時の森本氏の夢の源泉がこの本の中にあるのではないだろうか。そのような思いから、私にはあまり縁もなさそうだった世界探検全集5を買い求めてきてしまった。
 10月某日、『ニジェール探検行』を読み終えた。マンゴ・パークの足跡を辿る旅に私も行きたいとの思いがつのり、何か情報が得られるかと、アフガニスタンの旅でお馴染みになった朝日サンツアーズの中川氏に電話をしてみた。するとすでに「森本哲郎氏と行くニジェール探検行」は、12月23日出発の予定で、今なら申し込みを受付けられるとのことだった。
「私の年(当時56歳)でも大丈夫ですか」
 24日間の探検行と聞いては、さすがに心配になって尋ねると、「健康に自信があるのだったらどうぞ」といとも簡単に言われ、思いきって参加の申し込みをしてしまった。
 11月某日、東京検疫所で黄熱病の予防接種を受けてきた。これは10年間有効だそうである。コレラの予防注射を2回、さらに種痘も済ませた。マラリアの予防薬は出発の1週間前から飲み始め、1週間ごとにきちんと飲まなければならない。ビザ用の写真は20枚も用意するなど、アフリカへ行くというのは結構大変なことである。
 1978年12月23日、成田空港に大荷物を背負って参集、初めて参加者全員の顔合わせ。森本講師、添乗員の中川氏を含めて男性5人、女性10人というメンバーであった。その中には私より年長者が2人もいられることを知って安心した。パキスタン・アフガニスタンの旅で一緒だった朽木照子さんが札幌から馳せ参じたことで、同年輩どうし思いがけない再会に、人目も憚らず二人で抱き合って喜んでしまった。



(アフリカ地図)

 今から約200年前マンゴ・パークが発見するまで謎の川であったというニジェール川は、全長約4200キロメートル、西アフリカのフータ・ジャロン高原に発し、マリ、ニジェール、ナイジェリアを流れてギニア湾に注いでいる。
 今回のニジェール探検行に手配を依頼したのはフランスとイタリアの探検旅行専門の旅行会社であったという。それらがさらにイギリスの冒険会社と連絡をとって三社が緊密な共同計画のもとに、地域の分担を決め現地で私たちを待ち受けてくれるのだ。
 うんざりするほど待たされるのが当たり前のアフリカ時間に先ず洗礼を受けたのは、アフリカ第一歩セネガルのダカールからであった。


大西洋岸の漁村(セネガル・ダカール近く)
KAYARにて

ムスンデ、ヒライテ‥‥‥
皆とても音感が良く、すぐ上手に歌うようになる。
文化放送の鎌内さんのテープに入れたのを聞かされて、びっくり。自分たちの声に聞きほれる子供たち。

朝食後すぐ出発する予定で、支度を整えホテルの玄関先で待っていたのに、迎えの車が来たのは12時過ぎだった。だいたいこれがアフリカ時間で、はじめはジリジリした私たちも、次第に時間を超越した人々の中に溶け込んで、日本では考えられないような時間なしの生活に馴染んでいった。
 ダカールから飛行機でマリの首都バマコへ。空港に出迎えてくれたのはイタリア人のガイド、フランク・ピットーレとフェルナンド・マルチーニの二人に、ドライバーのイギリス人のロジャーとその夫人でドイツ人のドロシーだった。


バマコ市内風景

 バマコに一泊の後、ここを出発点にロジャーの運転する砂漠専用のローリーでセグー、ジェンネ、モプチと行く強行軍が続いた。アフリカを象徴するバオバブの巨木や、巨大なアリ塚が点在するサバンナの中を、与えられたミネラルウォーターを大事にまわし飲みし、粗食に耐え、時には二食がやっとという日もあった。

ニジェール河畔の(バマコ)洗濯風景 子供を背中というより、腰に背負って、
林の井戸端で洗濯をする若い母親たち

 ただ何とも愉快だったのは陽気なイタリア人で、車が走り出すとすぐカンツォーネを歌い出すのだが、それが実によい声で上手なのだ。日本の男性陣も負けずに応酬し、そのうち全員での大合唱になっていることもしばしばだった。
 カラフルな民族衣装ブーブーを身にまとって道行く女たち、大胆な柄と鮮やかな原色とが強烈な太陽のもと、黒い肌によく似合って素晴らしかった。


雑然と、だが活気のあるスークの風景

カメラ狂のメンバーは競い合ってシャッターをおしまくるのだったが、マルシェ(市場)や大きな河岸では、私服警官や兵隊による取締りが厳しく、一行の中には何度も連行されかかった人もいて、ガイドが、
「撮影許可証があるのに」
と、しきりにボヤキながら皆に注意するのだった。


スークで。森本哲朗氏と私



 「パークがガンビア出発以来、7カ月もかかって初めて接したニジェール川がここだったのだ。現地の案内人の叫んだ『ゲオ・アフィリィ』(見ろ、水だ)の声に川岸に駆け寄り、その水を飲みながら、彼が突き抜けるような歓喜とともに見た神秘のニジェール川。自分の労苦が報いられたことを神に深く感謝し、心からの祈りを捧げたという・・・・・」
 森本講師の話に200年前をしのび、テントを張って蚊取り線香を焚きながら過ごした、マリ共和国のニジェール河畔セグーでの一夜が、私の寝袋の旅の始まりであった。


「ゲオ・アフィリ」(見ろ!水だ)と約200年前にマンゴ・パークが第1次探検ではじめて出会ったニジェール川は此の地点という。

 二人用のこじんまりとしたテントに、朽木さんと一緒にもぐりこみ、エアマットや寝袋を広げた。初めての経験だったが、中に入って横になってみると案外快適でよく眠れた。朝になって皆で助け合いテントを畳んでいるのを見た二人のイタリア人は、
「初めてだというのに日本人はなんて手際がいいのだろう。イタリア人のツアーだったら3時間もかかるだろうに」
 と、大袈裟なジェスチャーで驚きをあらわしていた。
 パークはセグーからジェンネをめざしてさらに困難な旅をつづけたが、この辺りにはキリスト教徒を無視するムーア人が住み、その上恐ろしい猛獣が薮の中にひそむ危険があるなどのため、この第一次探検ではついにジェンネに行くことを断念して帰国しているのだった。


あちこちに見られる巨大なアリ塚。

 かってトンブクトゥと並んで“黄金の都”と呼ばれていたジェンネ。ギニア山地で採掘された金がニジェール川によってここに運び込まれ、ここからさらにトンブクトゥへと船で運ばれて、サハラ砂漠を駱駝で運ばれてきた塩と交換される。塩金貿易の交易都市として繁栄を誇っていたという。そのジェンネはニジェール川の支流バニ川の中州にあった。
 車が跳ね上がるほどのひどい道を潅木をぬうようにして川岸に着いたが、川を渡らなければジェンネには行かれない。そこにあるのはフェリーとは名ばかり長方形の平たい鉄の箱のようなもので、船頭が長い棹を川底につきさしながら進むという代物であった。すでに先客として小さな車でガイドを連れた老人が乗っていた。
ローリーを積むのは到底むりで、私たちは手回りの荷物だけ持ってフェリーに乗り移った。


ニジェールの支流「バニ川」をフェリーで渡る。
予定ではモプティ泊だがもう夕方近い。

彼はドイツ人で3ケ月もこうしてアフリカをドライブしているという。老人のガイドをつとめる黒人は数カ国語がきるそうで、私たちには英語で万博の時は「キョート、オーサカ」に行ったなどと話し、エリートらしくピンクの高級な紋織りの長衣を着ていた。
 さて、川は渡ったものの石ころだらけの川原で見渡す限り何もない。フランクとフェルナンドが、私たちの乗り物を探すため、老人の好意で町まで同乗させてもらい、出かけてからだいぶ時間がたった。次第に夕闇が迫り、肌寒くなってきたがガイドは一向に帰って来なかった。


とっぷり日が暮れてきたが、これからどうなるのか、さっぱりわからない「最後には辻褄があうのだー」と観念して河原に座り込み、ここでも待つしかないのだった。

「野営道具は車に置いてきてしまったし、ホテルがなかったらどうなるのだろう」
 だんだん心細くなって心配する声もではじめた。
「最後にはなんとか辻褄が合うようになる。それがアフリカなのだ」
 と、森本氏の少しも動じない態度に力づけられ、マンゴ・パークの頃もかくやと観念して、刻々と移り行く空の色を眺めながら待つしかないのだった。
「ジェンネにホテルがあった!」
 と、フェルナンドがやっと車を拾って戻ってきた。窓ガラスもないひどい車で、夜目にも凄い土埃を浴びながら10キロほど先のホテルまで、私たちはぎゅうぎゅう詰めのピストン輸送で運ばれた。車が止り電灯もない真っ暗な庭先に下り立てば、目ばかりギラギラした黒い顔に一斉に取り囲まれ、異様な雰囲気に私は一瞬ドキリとした。だが、遅い夕食にも恵まれ(何を食べたかさっぱり覚えていないが)やっと人心地を取り戻すことができた。
 先着のフランス人一家と私たちのガイドとが争奪戦の結果、フランス人は車の中に泊まることになり、女性のための一室がやっと獲得できたという。懐中電灯で照らして見れば部屋にはベッドが一つあるだけ、泥の床の上にきたならしい絨毯が敷いてあり、女性10人は着の身着のままでそこに横になった。これでも感謝しなくてはならなかったのだ。男性たちは部屋の外の泥の回廊に、薄いアンペラ1枚を敷いて、もう1枚のアンペラを体に巻き付けただけで寝たのだそうだが、寒くて一晩中眠るどころではなかったという。


先着のフランス人一家と争奪戦の結果獲得した部屋は、ベット一つ。ここに女性10人がゴロ寝。

 寝苦しい一夜が明けて外にでると庭先では2、3羽のカンムリ鶴が餌を啄んでいた。ここはこれでも「ガバメント・オブ・ジェンネ・グランドホテル」と壁にしるされていて、ジェンネ唯一の国営ホテルということに唖然としてしまった。
 モプチ泊まりの予定だったのが、ローリーが渡れなかったばかりのハプニングで、忘れ難い最悪の一夜であった。

(第1回・終)

┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は2月16日(木)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬

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