◇森本哲朗氏一行に加わっての、西アフリカ・ニジェール川探検紀行◇


 ホテルのすぐそばに、地面の色と同じ赤茶けた泥のお城が聳えていた。

イスラムの礼拝の場
前夜「うっかり踏み込んだら大変ー」と
注意を受けたが、なるほどモスクにかわる
聖なる場所であったのだ。

 偉容をしめすこの美事な建物は、イスラム教のモスク「フライディ・モスク」だという。まるで、デザインのように、等間隔で壁の外に突き出ている丸太は、椰子材でモスクの骨組みとなり、壁を補強するものであるという。これはまた、壁を塗り足す時の足場となったり、雨期には雨の雫が泥壁を滴り落ちるのを防ぐ役もしている。14世紀のマリ王朝の隆盛期に建てられたこのモスクは、何度も建て替えたり、補修されたりしながら原形を止めているそうである。

フライディ・モスク
なんども建てかえられているが、
元の姿とほとんど変わっていないという。

 入り口で靴を脱いで、螺旋状の泥の階段を登り屋上に上がった。赤茶色の泥の家の集落が広がる向こうにバニ川が光って見えた。かなり広い屋上には一面、3メートルくらいの間隔ですり鉢状のものが、まるで泥の帽子をかぶせたように並んでいた。その一つを手にとってみると、下は天井の明かり取りの窓になっているのだろうか、穴が開いていて下が覗けるのだった。電気がないモスクで集会がある時は、一斉にこの蓋のようになっているものが取り払われるのだろうか。下に降りてモスクの中に入ってみると、中は薄暗くて高い天井に向かい幾本もの泥の柱が立っているのが見えるだけだった。
 ジェンネの町は11世紀ごろにつくられたという。15世紀後半から16世紀にかけて、マリ王国にかわって覇権を握ったソンガイ王国が、黄金時代を謳歌した頃には、15,000人が住み活気を呈していたが、16世紀末モロッコ軍の侵入によって急速に衰微し、再び立ち上がることができなかった。現在の人口は1,500人くらいだそで、モスクの前の広場はひっそりと静まりかえり、私たちをみかけた子供たちが物珍しそうに寄ってくるだけだった。だが現在でも市場のたつ月曜日はマーケットマミーたちで溢れ、あちこちの部落から集まってくる人々で、広場一杯の賑わいを見せるという。
 モスクのまわりに広がる泥の家並みの間を歩きまわり、いろいろな角度からモスクをカメラにおさめていた森本氏は、このモスクを、
「ニジェール河畔にある泥のモスクの中での最高傑作だ」
 と嘆賞して止まなかった。


モスクの屋上
左、森本氏、真ん中が私。


 このジェンネに魅せられて住んでいる日本人がいた。さっきから「ジャポン、ツゥ!」としきりに告げていた子供たちが、やがて私たちの前に案内してきたのは2人の日本人だった。すっかり日焼けしたモンペのようなものをはき菅笠をかぶった、ベトナム人そっくりの谷川青年と、その彼女アカネ嬢は、ジェンネの雰囲気が気に入り、もう2ヵ月も滞在しているという。この後フランスへ行く予定だといっていたが、どうしているだろうか。
 バニ川の渡し場に昨日のフェリーは見えず、少年船頭の棹さす木の船で渡ることになった。ガイドたちが川の中に膝まで漬かりながら船を押し出した時「あっ!」森本氏がよろけて川に落ちてしまった。浅瀬のため半身ぬれねずみになったくらいで済んだが、それよりもいつも首から下げているカメラが、水に漬かってしまいがっかりしておられた。
 森本氏の場合カメラバックの中には他にも3、4台のカメラがあるので、以後もそれほど支障はなかったことと思われたが、最後まで悲喜こもごものジェンネ行であった。



 川岸に待ち受けていたロジャー夫妻のローリーでモプチに向かった。暫くは湿地帯がつづき、可憐な睡蓮の花などが見られたが、車内は36℃にも上がる蒸し暑さ。猿の群れや、コンドルが舞い上がるのを見かけたりした。牛の大集団がもうもうと土埃を上げ道を横切り、暫く行く手を塞がれたが、この辺は牛を飼うフーラー族の部落らしい。
 モプチはニジェール川とバニ川の合流地点にあり、水上、陸上交通の要となっている活気溢れる港町だった。午後2時過ぎモプチのホテルについて昼食、久し振りに安心して食べられる食事をとったような気がするのだった。
 町には大きなひょうたんの容器を頭上に乗せ、腰をピンと伸ばして歩く女性たちが行き交い、昔ながらの岩塩を売る老人の姿が見られた。道端に足を投げ出してタロ芋を売っているおばさんたちは、商売より仲間とのおしゃべりを楽しんでいるようだ。思わずカメラをむけたが少しも嫌がらずに写させてくれた。


昔ながらに塩を売る老人の姿

 モプチ焼きの水瓶、幾何学模様のモプチ織りの布地など、伝統的な工芸品もあり、市場で私たちはそれぞれ木彫りのお面や、モプチ織りを買ったりした。値段の交渉も皆だいぶ上手になって、初めの言い値の半分以下にして買った、などと自慢しあったりした。
 モプチからサハラ砂漠の南限であり北への入り口であるトンブクトゥまでは、増水期のため陸路を行かれず、ニジェール川を船で下ることになった。そしてトンブクトゥからガオまでは飛行機ということで、差し当たりその間必要な物だけ取り出し、後はロジャーの車に預けてガオまで運んで貰うという。ホテルの庭で私たちは大急ぎで仕分けに取り掛かった。当座の衣類や小物類に薬、どんな船かわからないので寝袋とエアーマットは欠かせない。その間にロジャー夫妻がミネラルウォーターや、果物など買い集めるのに一生懸命骨を折ってくれたと、中川氏から聞いて一同改めて夫妻に感謝するのだった。
 裸電球の吊り下がるホテルの庭先で夕食をとった。蚊取線香の入った容器を腰にぶら下げ、おでこに炭鉱夫が使うような懐中電灯をつけた私の格好を、隣り合わせのテーブルにいたベルギー人だという旅行者一行が、先程から面白がって見ていたので一緒にカメラにおさまったりした。ニジェール川の船旅に私の気持ちが余程高揚していたのだろう。思えばこの夜の食事以来まる4日間、食事らしい食事をとったことはなかった。





ホテルから少し歩いた港から船に乗り込むことになった。男性軍が食糧の入ったダンボール箱を運び込み、女性軍は懐中電灯でその足元を照らすお手伝いをした。チャーターしたのはエンジンこそついているがボロボロの幌のついた、貨物運搬船で全長約30メートル、幅は広い所で2メートルほどの木造船だった。船底には雑穀袋が雑然と積み込まれ、その上に寝るのだと言われてびっくりした。
「私たちだったらもっと整然と積むのにね」
と呆れながらも何とか工夫をして隙間をうめ、エアーマット、寝袋を広げ先ず自分の寝場所を確保した。船がモプチの岸を離れたのは夜もだいぶ更けてからだった。ザーッ、ザーッと時々聞こえる音は、浸水して溜った水を、何と瓢箪の容器で掻い出しているのだという。鈍い断続音が体に響いてとても寝られるものではない。こんな船で何日も過ごさなければならないのだろうか、やりきれない思いで寝袋から顔を出せば、川風は冷たく、両岸は闇に吸い込まれていた。


エンジンは付いているが、
30分おきにひょうたんで
水をかい出しているしろもの。
下は穀物袋でごろごろ。

 時速は10キロぐらいだったろうか。日に何回かのトイレ上陸の時は、蚊除けの団扇や靴など片手に船べりから岸に渡した板を渡って、それぞれ茂みを目指して散るのだ。すばやく用を済まさないと大変。人影も無かった川辺に、どこからどう来るのか、船をみつけた人々がたちまち集まってくる。こんな川べりの集落では日本人など初めて見るのだろう、私たちのほうが見物されるのだ。



 だがどの部落も素朴で明るい人々で、カセットテープで日本の歌を聞かせると、彼等も負けずに自分たちの歌を歌い、一斉に踊り出す。子供たちも音感が良く「むすんでひらいて」などすぐ覚えて一緒に歌い、そのテープを再生して聞かせると、瞳を輝かせて聞き入り喜ぶのだった。折り紙を折ってあげた時、きれいな瞳をした少女が痛いほど私の手を握り締めて、嬉しさを現した時の感触なども忘れ難い。
 ある村でのこと。化膿しきった手を私の前に差出し、薬をとねだった老爺の縋るような瞳に、慌てて船に引き返て「誰か薬を!」と呼びかけたが「近代的な薬を少しばかり上げても、結局その場だけのこと」とたしなめられ「ごめんなさい。旅行者の私には何もしてあげられなくて」と、心の中で呟きながら、その姿を忘れようと努めたこともあった。
 深夜になると岸辺に近付き碇を下ろして夜明けを待つ。夜が明け初めるころ黒人の機関手が幌を屋根の上に巻き上げてくれると、朝焼けの美しい空を刻々と色を変えながら太陽が昇るのを、私たちは寝ながらにしてカメラにおさめることができた。
 船の上から両岸を眺めれば部族ごとに違う家々、羊の群れを追う遊牧民のテントなど、川沿いに暮らす人々の生活がうかがえ、また、ピロッグ(木製の小舟)やカヌーが静かに川面を行く素朴な風景にも、マンゴ・パークの時代もかくやと偲ばれるのだった。
 何もすることとてなく、船ばたから手をのばしてはニジェール川の水で洗濯するのが唯一の仕事だった。
「マリは今、ものすごいインフレで‥‥‥」
 というような中川氏の時事解説に耳を傾けたり、森本氏のジョークにみちた雑談に興じるなど、この船旅ならではの、のんびりした時間を楽しんでもいた。
 炊事係りは船頭の奥さんで、船の胴間で薪を燃やしてお湯を沸かし、私たちの持参したレトルト食品を暖めてくれた。まさにこれらのインスタント食品や缶詰が、トンブクトゥまでの4日間の船旅を可能にしてくれたのだ。
 大晦日の夜は威勢よくシャンパンが抜かれ、日本での紅白歌合戦さながら、日伊歌合戦が繰り広げられた。ゆくりなくもニジェール川を行く狭い船上で、皆で蛍の光を歌い1978年を送り79年を迎えたが、この感激は私にとって終生忘れ難い思い出となった。
 ニジェール川右岸の湿地帯が続く彼方から初日の出が昇り、空も川面も茜色に輝き、左岸はすっかり砂漠の様相を呈してきた。




「ハッピー・ニューイヤー!」「おめでとうございます!」
 賑やかに新年の挨拶が飛び交う元旦の朝、パック詰めの切り餅がきつねどんべえに入ったお雑煮らしきものとお赤飯、それに思いついたまま私の用意していった祝い箸と年賀状も配られて、お正月気分を満喫しながら遥かアフリカでの新春を喜び合った。


“ベトナム難民船”と称したこのチャーター船も今日限りでお別れとなると、名残り惜しさもひとしお。
狭いながらも楽しい4泊であった。

 1月2日の夜遅くトンブクトゥの外港カバラに着いた。明日はいよいよトンブクトゥの上陸である。「難民船」とか「奴隷船」とかいって、はじめは嘆き合った私たちだったが、誰かの句にあるように「落ち栗の座を定めたる窪みかな」で、いつか体にすっかり馴染んできた寝場所が離れ難いものに思われ、200年前のマンゴ・パークの頃も偲ばれるようなこの船旅が、だからこそ余計に名残惜しいものとなってきたのだった。


(第2回・終)

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