◇森本哲郎氏一行に加わっての、西アフリカ・ニジェール川探検紀行◇


 1月3日の朝、船に別れを告げ、河原からジープで市内の警察署に運ばれた。パスポートを提出し書類にいろいろ書かされた後ホテルに向かったが、窓ガラスのないジープからはもうもうと黄色い砂塵が舞い込んできた。
「トンブクトゥも変わったなあ‥‥」
 森本氏は、新しく家が建ち、道幅も広く舗装された道路に驚きの声を上げるのだった。
 国営のキャンプマンホテルに落ち着いて一休み。2階の私たちの部屋は、しみだらけの壁に小さな窓、薄汚れたシーツのベッドが一つあるだけの殺風景な部屋だったが、
「ここのホテルにはトイレがある!」「顔を洗う水も出るわ」「わあー、幸せね」
 と喜び合うのだった。サハラ砂漠が目の前に広がるテラスで、取り敢えずカップラーメンで食事を済ませ、早速市内見物に繰り出した。日干し煉瓦と泥で作られた家並みがつづき、その間の狭い道を重い荷物を積んだロバがゆく。鮮やかな青い布をまとい黒い布を頭に巻いた男が行くのは“青い種族”と呼ばれるトゥアレグ族だ。


14世紀ごろ、マンサ・ムサ王がメッカ巡礼から連れ帰った
エッ・サヘリに命じて建てた古いモスク。
サンコレモスクという。
丸太のような材木によって補強されている。

 トンブクトゥを象徴するサンコレ・モスクはジェンネと同じように丸太がいっぱい突き刺さった泥のモスクだった。主塔は四角錐で規模はずっと小さかった。やっと通れるほどの螺旋階段を上がり、屋上に出て目にしたのは泥の家並と、遥かに広がる砂丘の連なりである。日盛りの照り返しは一段と厳しく灼けつくような暑さだったが、建物や木陰に入るとひんやりとして息がつける思いがした。このモスクはマリ王国の14世紀ころ、カンクー・ムーサ王がメッカ巡礼の帰途連れてきた、アンダルシア出身のエッ・サヘリに命じて建てたものという。ジェンネと同じ15世紀〜16世紀にかけての最盛期にはコーランの学校が200近くもあり、同時代のヨーロッパの大学都市にひけをとらないだけの文化をもっていたそうである。
 黄金郷(エルドラド)トンブクトゥは、18世紀から19世紀にかけて幾人もの探検家たちの夢をかりたて、命懸けの冒険に挑ませた幻の都でもあった。1828年フランスの探検家ルネ・カイエはイスラム教徒になりすまし、想像を越える苦難に耐えてトンブクトゥに到着した。幻の都に着いた感激が鎮まったあと失望を隠さず「私の前にあった光景は、およそ私が期待していた姿とはちがっていた。噂にきいていたような豊かな町ではなく、みすぼらしいドロの家の集りにすぎなかった。まわりには黄色の砂漠がひろがり、深い沈黙があたりを支配し、鳥の声さえきこえなかった。すべてが陰鬱だった」と記していたという。(森本哲朗著『タッシリ・ナジェール』より)この頃すでにもう、黄金の都ではなかったのである。
 彼の滞在していた家の戸口の上に、無事本国に生還することの出来た最初のヨーロッパ人として、彼を称えた石版が母国フランスによって嵌め込まれていた。その近くにはスコットランド人ゴードン・レイング大佐の滞在した家もあり、そこにはイギリス国家が贈った銅版が嵌め込まれていた。彼はルネ・カイエより1年前に隊商に加わってトンブクトゥに達したが、ここを出てまもなく砂漠のどこかで殺されてしまったのだ。レイングの家からすぐ近いところかにドイツ人ハインリヒ・バルトを記念する石版がはめ込まれた家もあった。その頃とトンブクトゥは変わっていないのだろうか。
 かつてフランス領だった名残か、マリはどこに行ってもパンがおいしかった。トンブクトゥでは道の真ん中にパンを焼く泥のかまどが見られたが、それぞれ家でこねたものを持ってきてここで焼くのだろうか。町の中心には大きな市場があり人と品物で溢れていた。驚いたのはハエの多いことで、炎天下にむきだしで並べられている魚や肉には、まるでゴマをふりかけたようにハエがたかっているが、気にするのは私たちだけらしい。


ハエ!ハエ!ハエ!ものすごいハエ。
ゴマ塩のようにハエがたかる。

 4本の木の枝を立てアンペラで上を覆っただけの、小屋がけともいえないような店が広場いっぱい並び、いろいろな野菜や香料、雑貨、岩塩などを売っていた。
 ミネラルウォーターなどはるばる運ばれてくるものはかなり高価で、食事の時私たちはいつもミネラルウォーターの半値くらいのビールで済ませた。そしてレストランに座ればタダで水が出てくる日本のありがたみをつくづく思うのだった。




見はるかすサハラ砂漠。
モスクの屋上より眺める。


 夕方、テラスの前から広がるサハラ砂漠の砂丘に足を踏み入れて暫く歩いてみた。砂に手を触れてみるとサラサラとして意外に冷たくて、それはまるで粉白粉のように細かい粒子であった。こんな砂が舞い上がる砂嵐の時はどんなだろうと思いやられた。
 駱駝をひいた少年が私たちをめがけてよってきた。
「ホテルまで1人1000フランで(500円)で2人一緒に乗れると言ってますよ」
 中川氏が側にきてサポートしてくれたので、朽木さんと私はこわごわながら駱駝にまたがった。アフリカの駱駝はひとこぶ駱駝である。後ろに乗った私はずり落ちそうでバランスをとるのに必死だったが、少し行くうちだいぶ馴れてきた。夕闇が次第に迫る中で思わず“月の砂漠”を口ずさんでいた。2人で気分を出して声が大きくなっていたのだろう、いつの間にか何人かの長衣の人が一緒に歩いていた。月こそなかったが砂漠で駱駝に乗れた感激!




 ホテルにつくと後ろから来られた森本氏が「ぼく、駱駝から落ちちゃった!」と宣う。
 「えっ、先生ほんと?」ニコニコ顔を見れば氏お得意のジョークのようだった。
 この夜はホテルの庭で、これから行く所のイフェ、ベニン、ノク文明などについてのレクチャーがあった。アフリカの歴史は1万年前に遡ることができるという興味深いお話も、船旅の疲れからこっくりこっくり船を漕いでいる方が多く、いつもは森本氏の講義が楽しみな私も、時々睡魔に襲われてノートの字も乱れがちなのであった。
 1月4日、ガオに向かう予定で早朝から空港に行ったが飛行機がこなくてさんざん待たされた。12時頃やっとエア・マリのプロペラ機が見えて、やれやれと喜んだのも束の間、日本人の私たちだけどうしたのか、なかなか搭乗させてもらえないのである。
「重量オーバーで全員乗れないといっています。これに乗れないと1週間待たなければなりません。仕方ないので荷物を置いていきましょう。ガオの空港にはロジャーが迎えにきてますし、何とか乗りましょう!」
 中川氏の悲壮な決意にしたがって、やむなく各自の寝袋や野営道具一式を残すことにした。男性軍はあっさりとダンボールごと食糧もミネラルウォーターも、置き去りにしてやむを得ないと諦めたようだが、この時の女性軍の働きは目覚ましかった。まさに火事場のばか力で、風呂敷や手にさげた荷物の中に、インスタント食品やミネラルウォーターのあらかたを、あっという間に詰め込んでしまったのだった。
 タラップを踏んだところで私の大きなバッグは「ノー」と拒否されてしまった。大急ぎでフィルムだけ抜き出してバッグを渡し、タラップを必死でかけ上がった。私の後ろにはまだ5、6人いるのにタラップを上げようとしている。皆で大声をあげて詰め寄ったので、現地人が1人降ろされてどうやら全員搭乗できたが、どうなることかとスリルにみちた一幕であった。
 やっと席についてほっとすると、スチュワーデスが私の顔を覗きこんで、慰めるような表情で頷いてくれるのだった。
 50人ほどで満席の乗客を乗せてどうやら飛行機は飛び立った。少し落ち着くにつれ機内は蒸し暑く、高度も低く飛ぶ眼下には、灌木のまばらな砂漠地帯と、大きく湾曲するニジェール川が光って見えるだけで、部落も道もほとんど見当たらない。ガオまでの飛行時間は1時間だそうだが、車で行くとしたら3日はかかるという。荷物ぐらい諦めるしかなかったが、私たちの旅は後半に入ったばかり、これからどうなるのだろうかとの不安が胸に広がる。


 13時30分ごろガオ空港着、閑散とした空港内にロジャー夫妻の顔が見えた時は、まるで家族にでも会ったように嬉しく、私たちはドロシー夫人と固い握手を交わしあった。

 ガオ空港

 中川氏が苦渋にみちた表情でトンブクトゥでの出来事を話すのを、夫妻は真剣な面持ちで聞き入っていたが、置いてきた荷物のことは航空会社に交渉して、しかるべく取り計らうことを引き受けてくれた。
 ロジャー夫妻は1年中、キャンプ用の車を後ろに取り付けたこのローリーに寝起きして、サハラ砂漠を走り回っているという。私たちがモプチから船旅を続け、トンブクトゥからここまで辿り着く間に、ローリーを走らせて待っていてくれたのだ。空港に一緒に出迎えたダンカンは砂漠が大好きで農閑期になるとサハラにやってきて、ロジャーを手伝っている友人だと紹介された。
 イギリスのゲルバという冒険会社はそんな仲間の何人かでつくっている会社で、旅行者の要望に応じ、サハラ砂漠を自在に走るのを仕事にしているという。ロジャーは著述家であり、ダンカンはイングランドで農業をやっていて、この仕事はまったく趣味と実益を兼ねたものなのだそうである。

 ガオ、アスキア大王の墓

 久し振りのローリーでまず訪れたのは、アスキア大王のお墓だった。それは日干しレンガと泥で台形に築かれ、四方の壁には枝を払っただけの曲がりくねった木が、無造作に突き刺さり、まるでヤマアラシの針を思わせるようなものだった。
 14世紀後半衰微してきたマリ王朝にかわって、勢力を増したソンガイ王朝は首都の名をとってガオ帝国とも呼ばれた。トンブクトゥもその支配下に置かれ、ソンガイ王朝は次第に広大な版図を画して行き、アスキア大王の時代にガオ帝国は最盛期を迎えたという。だが16世紀末にはモロッコ軍に侵略され、この地にも侵略の盛衰が刻まれているのだった。
 モスクの前の広場は日除けのアンペラかけの小屋がずらりと並び、歩くのもやっとというくらい人で溢れていた。町の通りに骨董屋をみかけ、森本氏と中に入ってみた。魅力あるアンティークなものばかり、欲しいのは山々だが、持って帰ることを考えると手が出ない。こんな時、面白半分相手が到底まけそうもない値段に値切っては、買うハメになって悩むのが森本氏であった。こちらの言い値まで下げた場合、買わないのは仁義にはずれることになるのだろうか。結局苦心をしながら旅の間中、持って歩かれるのである。



(第3回・終)

┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は4月15日(土)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬

中高年の「元気が出るページ」‥TOP PAGE→→→→→→→→→→→→→→→●