◇森本哲郎氏一行に加わっての、西アフリカ・ニジェール川探検紀行◇


 スケジュールにはなかったことだがメンバーの1人、文化放送の鎌内さんに誘われて、夕食までの間に女性4人で動力炉核燃料開発事業団(略称動燃P・N・C本社港区赤坂)の事務所を訪問することになった。私たちを出迎えてくれたのは資源部海外調査主任、角田晴信氏で現地の状況をかいつまんでお話してくださった。
 サハラ砂漠にウランの試掘を進めるこの事業は、マリ政府と共同で日本人約50人、現地人150人位の人が働いていて、4つに編成されているという。
1 地質基地 北の方に在る
2 試錘(ボーリング) 日本が請け負っている
3 エアボーン 飛行機で探る 460地点、40,000キロに及ぶ
4 ピックアップ これはと思う場所を写真に撮り、その場所にいって調査する
 さらに「マリ共和国にウラン鉱を求めて」のビデオによって説明をしていただき、実際の活動の様子がよく分かった。この辺の砂漠にいる恐ろしいサソリの実物を、初めて見せてもらったが、それは煙草1本分位の大きさであった。
 日常の生活についての私たちの質問にも淡々と答えてくださった。ニジェール川の水を汲んで殺菌し、タンクローリーで運んだものをさらに煮沸して使う。お米は日本から5トンくらい来ているのでほとんど日本食をとっているそうだが、日本からの輸送はすべて船便で、コートジボアールのアビジャンまで送られ後は陸送されてくるという。
 一番の悩みは家族との連絡で、航空便でもパリ〜バマコを経由してくるため、非常に日数がかかることだと言われた。持参した梅干しや海苔、お茶や浅田飴などに、せめてもの故国の味を託して、心からご健康をと祈り辞去してきた。


ガオのホテルの素敵なマダムと。

 ガオのホテル・アトランティードのマダムはなかなかの美人で、素敵なドレスで挨拶に現れた。この日、1月4日に◯◯歳の誕生日を迎えた中川氏のため、皆で寄せ書きをし夕食の席でお祝いをしようと密かに図った私たちは、マダムに刺激されて少しドレスアップして席に着いた。まず森本氏の音頭で乾杯を上げ、今度の旅でいろいろご苦労されている中川氏に、一同労いの言葉を寄せたのだった。
 私たちはこの夜がロジャー夫妻との最後の夜になるとは夢にも思わなかった。




 早朝6時出発の予定が例によって遅れている。やがて知らされたのは道路事情のため、ローリーから小さな車3台に分乗することに変更されたということだった。思いがけない突然の話にびっくりしたが、荷物の積み替えに手間取っている間に私たちは慌ててプレゼントを探し、ロジャー夫妻にお礼の心を込めて贈り、それぞれ固い握手を交わして尽きぬ名残を惜しんだ。

朝まだきのガオの街。
さすがに昼間の雑踏もウソのように静まりかえって人影もなし。

ランドローリーにかわって、3台のランドローバーに分乗することになった。6時出発予定が、例によって9時半頃となる。

 ロジャーは暇さえあれば砂漠に関する文献を読み耽っていて寡黙だが、運転も慎重で信頼できる紳士であった。ドロシーは控え目ながら気配りが行き届き礼儀が正しくて、暖かみのある人柄に私たちは魅かれていた。このよきカップルとの思いがけない別れは本当に残念だった。
 森本氏、朽木さんと一緒の1号車トヨタのランドクルーザーに乗る。全員が3台に乗り込んでからも1台はガソリンを入れに行き、別の運転手は保険をかけにいったという具合に時間ばかりとっている。
「頭の悪いのも犯罪の一種だ」と森本氏は先程からプンプンである。
 10時頃いよいよ出発となった。この辺りの部落は今までとは違った形の家で、むしろで葺いたまんまるい屋根をのせていた。やがて砂漠の灌木地帯に入ってしばらく走っていたが、後続車が見えないと車を止めてしまった。車内温度32度かなり暑くなりそうである。
 やっと2号車が見えたが、その連絡によれば、3号車がスペアタイヤを落として探しに戻ったためだったという。砂漠に行く時は決して単独行動をしないのが鉄則という、彼等の仲間の結束の固さを思い知らされた。
 ガオの動燃の事務所で聞いた話だが、『サハラに死す』の上温湯隆青年が亡くなっていたのは、ガオから僅か100キロくらいの所だったという。サハラ砂漠を東西に横切る全長7000キロメートル、その前人未到の横断旅行に単身1頭のラクダとともに出発し、3000キロまで踏破した所でラクダが死んで挫折。再起をはかって再び挑戦したが、新しく求めたラクダが荷物をつけたまま逃げてしまったらしく、不幸にして熱砂の中で亡くなっていたという。22歳の青春をかけてサハラに燃え尽きたラクダ君こと隆青年を惜しみ、残された日記やメモ、手紙を編集して出版されたのが『サハラに死す』(時事通信社)なのであった。
 今の世でも砂漠はいつも死と隣り合わせにある苛酷な世界なのだ。
 途中アソンゴの川原でホテルが用意してくれたランチボックスの昼食をとった。所々にある検問所でやたらに時間をとられ、6時までにニジェールの国境に着かないと大変だとガイドが気を揉み始めた。どうやら5時半ごろにはマリの出国手続きが済み、それから30キロも走ってニジェールの入国手続きとなった。もうすっかり日が落ちて真っ暗な中で、懐中電灯を照らしながらの入念な荷物検査で時間のかかること夥しい。「彼等は日本人の持ち物が珍しくて楽しみながらやっているのだ」と、誰かが苦々しげに呟いていた。やっと9時過ぎにカバの名所だというアヨルの町についた。ここが砂漠の途中というのが信じられないような瀟酒なレストランで、お料理もおいしく心身共に寛いだのだった。
 だが、ここからがまた強行軍となった。凄い土埃が車の中に容赦なく入り、酷い揺れで眠るどころではなかった。その上1台の車がパンクしてしまって、無人の昿野で月光を浴びながら、わいわいがやがやとパンク直しに取り掛かった。あまり時間がかかっているので側まで行って見て驚いた。スペアタイヤがある筈なのに、タイヤのチューブに自転車の空気入れで空気をいれているのだ。深夜の冷え冷えとした寒さに私は慌てて車に舞い戻った。
 パンク修理にどの位時間をとられたのだろうか。野営道具も寝袋もなくなった以上、何はともあれニアメのホテルまで行って泊まらなくてはならない。運転手の眠気を防ぐため私たちは大きな声で歌を歌ったり、キャンデーを上げたりして一睡もできなかった。やっとニアメのグランドホテルに到着したのは明け方の4時だった。もう部屋も取れずロビーのソファに倒れ込むようにして、欲も得もなく仮眠を貪るのだった。


ニアメ(人口2万人、ハウサ語)
車の故障、パンク...ハプニング続きで夜中まで走りづめで、朝方4時にやっとグランド・ホテルに到着。ロビーのソファで仮眠をとり、コーヒーでやっと人心地がつく。
国立博物館(動物園、遊園地もあり)見物もほどほどに、ブーボン・ビレッジに向かう。



 朝のコーヒーでやっと人心地がついた私たちを訪れたのは、フランスのエクスプロラトール(探検会社)のモーリスで、貴公子然とした青年の彼がここから先のガイドだという。早速国立博物館に案内された。敷地の一角に各部族の代表的な古い家屋を再現した展示場が設けられ、それぞれの家の中には使用した道具なども置かれていた。ここはまさにニジェールの明治村であった。また動物園と遊園地も兼ねていて、動物園の檻の中にはゴリラ、ライオン、カバなどが所在なさそうに寝そべっていて、我々には見向きもしなかった。
 人影もまばらな園内には大きなユーカリの木があり、ブーゲンビリアが美しく、花壇にはいろいろ珍しい花が咲き乱れ、手入れもよく行き届いていて、砂漠から一足飛びに近代都市に踏みいれたようだった。
 ニアメはニジェール共和国の首都であり、高層の建物も多く、市場には品物が溢れ活気を呈していた。ホテルまで戻り、フランス人のガイドにバトンタッチしたイタリア人の2人のガイドとお別れする時を迎えた。バマコからトンブクトゥと、これまで様々な苦楽を共にして名残りも尽きないが「別れも陽気!」で彼等は何の屈託もなく、森本氏と三巴に握手を交わし、
「グラツィエ!」「ありがとう!」
 と手を振りながらあっさりと別れていった。昨夜のことを思いガオまでなんとか無事帰り着きますようにと、手を合わせ祈るような気持ちで3台の車を見送った。
 昨夜は徹夜の状態でホテルに宿泊できなかった私たちはとにかく早く休息をと、ニジェール川の中洲にあるバンガローに向かった。川べりの小舟で渡ると待ち受けていた少年たちが、争うように荷物を取ると頭の上に軽々と乗せて案内してくれた。広々とした草葺きのバンガローには緑色の大きなトカゲが無数に這い回っていた。はじめは皆悲鳴を上げていたが、何の害もないとわかってくると、上体をもたげじっとこちらを見ている様子が、まるで私たちを歓迎しているようで可愛らしく思われてきた。


ニジェール川の中洲にあるブーボン・ビレッジで憩う。
小舟で何回かに分れて渡ったここのバンガローで今迄の疲れと汚れを充分洗い流すことができた。

シャワーを浴びて今までの疲れと汚れをさっぱりと洗い落としベッドに横になった。ほっと一息ついて天井を見ればこれまたびっくり、沢山の小さなやもりが天井にぴたっとはりついているではないか。だがそれも気にしていられないほどの睡魔に襲われて、頭の上までタオルをすっぽりかぶり深い眠りに引き込まれてしまった。



(第4回・終)

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