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1月7日、男性軍の寝坊によって出発が少し遅れたが、朝靄をついて川を渡りまた3台の車に分乗して、次の宿泊予定地イエルバに向かった。ニアメの市内の広場に大勢の人が集まり喚声を上げていたのは、サハラ砂漠を縦断するパリ〜ダカール・ラリーの中継点だということだった。さて、これまでのパプニング続きにだいぶ馴れてきた私たちだが、 という中川氏の話に、新たな覚悟を求められたようで緊張感が走った。 国境近いガヤの町で昼食を取ることになった。用意ができないらしいので手持ちのインスタント食品で済ませた私たちを、物珍しそうに覗きこむ少女たちに、折り紙を出してツルなどを一緒におりながら言葉は通じなくてもコミニケーションを交わす場となった。旅の間中、食後に飲むことにしている漢方薬を飲む私を、ジーッと見つめている少女に気がついて、 「おなかの薬よ」 ちょっと顔をしかめ下腹に手をやってみせた。きまりわるそうに手を出した彼女に気軽に1回分の丸薬を渡したが、さあそのあとが大変、周り中から無数に手が伸びて折り紙どころではなくなった。仕方なくいく粒かずつそれぞれの手にのせてあげると、着ている服の裾に巻き込んで大事そうにしっかりと握りしめていた。
いよいよ国境に向かって出発。車内温度は34度、辺りは大草原からサバンナ(熱帯の原野)地帯へと移りカポックやナツメ椰子の木が見られるようになってきた。1時40分ニジェール側の出国手続きを済ませ、10分程の非武装地帯を通りナイジェリア側の入国手続きに入った。さして混んでもいないのに何故か延々と時間がかかるのだった。私たちは傍らの若い母親の抱く赤ちゃんをあやしたりして過ごしていたが、次第に日が沈み始めてきた。 「今日は旅の16日目、あと1週間もすれば日本に帰る日を迎えるのね」 などと、ちょっとオセンチになって何人かで夕焼け小焼けを歌い出した。運転手たちが私たちの口許を見ながら一緒に歌っているのを見て、鎌内さんがテープを取り出しついに砂漠の歌唱教室が始まった。 「ユーヤケ‥‥コヤケデ‥‥ヒガクレテ‥‥‥」 声を合わせ真剣に歌う彼等の歌声は、哀調を帯びてゆっくりと国境の夕焼けの空に広がり、心に染みいるようで思わず涙に目が潤んでくるのだった。 長時間を費やした入国手続きもやっと完了して、5分も走ると光景がたちまち違ってきた。ナイジェリアはアフリカの中でも人口の多い国だそうだが、顔立ちも体型もこれまでと大分違い、道には人が溢れるようにいて砂糖きび売りの姿なども見かけられた。モーリスから、 「秘密警察が多くいるので、やたらに人物や景色を写さないよう、カメラにはくれぐれも気をつけてください」 との注意を受ける。やがて市街地を外れ、人気のない真っ暗なサバンナ地帯を何時間も走っていると、不安感からか無性に人恋しさのような気持ちが募ってくるのだった。遥かに見える焼き畑の野火の火にも、あそこには人間の営みがあるのだと懐かしく思われてきた。闇の中の火の色は美しく不思議な崇高さがあり、明るい都市生活では考えたこともない、神秘的な畏敬の念すら覚えたのである。
イエルバの町に着いたのは深夜であった。運転手が町の人たちに道を尋ねても言葉が全く通じないという。走りながらフランス語のわかる青年を見つけて同乗してもらい、やっと辿り着いた真新しい国民宿舎は、まだオープン前だそうで受け入れてくれなかった。仕方なくそれからまた町中走り回った末、ヒルサイド・ホテルと名前は立派だが現地の人の泊まる木賃宿らしいものを見つけて泊まれることになった。建物の中にはトイレもなく、水も出ない。夜食はレトルト食品をごちゃごちゃにまぜて温めたものが配られたが、見ただけで食欲を失い、お腹は空いていたがどうしてもノドを通らなかった。 「今夜は幸い恐ろしい目にも会わず、ここまで来られてよかったわね」 朽木さんと無事を感謝しあい、1つベットに着の身着のままで眠り込んでしまった。 翌8日の朝は町のレストハウスで朝食をとることになったが、1時間もかかってやっと出てきたのはオートミールだけだった。すぐそばに対岸に渡るフェリーの乗り場があった。ここで私たちはガソリンを入れるために3時間も待たされた。ナイジェリアは産油国だが、ガソリンスタンドは品切れの看板ばかりで、闇市のボスから凄い闇値で手に入れなければならないのだという。1970年代石油の価格が急騰して以来、この国の貨幣経済は無軌道ともいえる状態で、闇が横行しインフレが甚だしいということであった。
はじめのうちは物珍しくその様子に眺め入ったり、遠慮がちに川をバックにしてお互いのスナップを写し合っていた私たちだったが、時間がたつにつれて次第に気がゆるみ、モーリスの注意も忘れて川岸の賑わいをパチパチと撮り出していた。 やっぱり秘密警察はいた!警官だか兵隊だか分からない男たちに日本人一行は咎められ、しまった!と皆で顔を見合わせたが後の祭りである。一行を代表してモーリス、中川氏、森本氏が何人かに取り囲まれどこかに連行されてしまった。残された一同はフイルムの没収間違いなしと覚悟して、カメラから抜き出し指示を待つしかなかった。 かれこれ1時間くらいも経ったろうか、無事ご帰還!心配して待っていた私たちの前に姿を現した3人は、意外にも意気揚々としており、私たちのフイルムも没収を免れたという。どのような仕儀であったのか定かでないが、一同ほっと胸を撫でおろし改めて誓い合った。 「お互いにカメラにはくれぐれも気をつけよう」 とんだハプニングで大分時間をとられたがいよいよ川を渡ることになった。例によってお粗末なフェリーで、これで渡れるのかと心配したが、荷物を満載した3台の車とも一緒に乗り込めて対岸に渡ることができた。
ステップ地帯を南下するにつれ再びサバンナ地帯が開けてきた。バスの行く手に弓矢を持った裸の親子を見かけたが、モーリスの話ではこの辺は猛獣保護区に指定されているという。大きな木の枝先に真っ赤な花を一杯つけたカポックが、真っ青な空をバックに際立って美しかった。巨大なアリ塚は今までと全く形が違い、私たちがよじ登ってもびくともしなかった。
午後の車内温度は44度にも上がり、私たちの疲労の度も増してきたため、行程を短くしニュー・ブッサのホテルに5時前に入ることとなってほっとした。ここにはナイジェリア最大というカインジ・ダムがあり、1969年に完成、発電が開始されたという。ダム建設当時外国人技術者たちの宿舎だった建物が、国営のホテルとなっているのだったが中川氏は、 「パリのヒルトン・ホテルよりも高いホテル代ですよ」 とびっくりしていた。だが、そのお陰で久し振りに文明生活を味わうことができた。食事も十分整い、明るい電灯の下でシャワーを浴びたり洗濯したり、気持ちよいベットに休むこともできて、ここ数日来の疲れもすっかりとれたようであった。 1月9日、いよいよ私たちはニジェール川探検家マンゴ・パーク終焉の地と言われるブッサを訪れることになった。 「パークは第1次探検から9年後の1805年、イギリス政府の援助によって大規模な探検隊を組織して、30数人の隊員を率いて再度ニジェール川探検に向かった。途中までは順調に進んだのだが、雨季がやってきてアフリカの風土に慣れていない隊員たちがほとんど病死し、やっとニジェール川に到達したのはパーク以下5人に過ぎなかった。彼はサンサンディングの町で船を手に入れてそれを修復し、11月16日『準備完了。明朝もしくは明日の夕刻に出発する』と、日記に書き残してニジェールの河口を目指して船出したが、その後全員が消息を絶ってしまった。パークの日記は忠実な黒人の従僕に託していたので、無事ガンビアに届きイギリスに送られていた。後になって分かったことだがこのブッサの地点で、この辺りを治めるハウサ王の軍隊が急流の岩の上に待ち伏せして、通過しようとしたパークの船を襲撃したため、敢え無く全員川の中に命を閉じたと言うことだった」 森本氏の話に耳を傾けパークを偲びながら、私たちは心をこめ折り鶴を折った。今はその急流もかつてのブッサの村もダムの湖底に沈んでいるのだった。ダムの下流の深いよどみの上にかかる橋の上から、折り鶴に思いを託してパークの霊を弔ったのだった。いくつもの折り鶴はヒラヒラと風に舞いながら、やがて川面に落ちて漂い流れていった。 陸路ブッサへ到達したヒュー・クラッパートンと、リチャード・ランダーによってマンゴ・パークの探検の事実と死が確証されたのは、1825年のことであったという。その後ブッサからベニン湾までの後をたどったランダーによってニジェール川の全容は解明されたが、パークは計画完遂のわずか500マイル手前で命を落としていたのだという。 忠僕の黒人イサコや、ほとんど最後までパークと行動を共にしたというガイドのファトゥマの話によって、パークが死んだことはイギリスに伝えられたが、パークの夫人は30年後に死ぬまで、パークが生きて帰ってくると固く信じていたそうである。 今は地図の上でもニュー・ブッサとなり、ダムのため撮影禁止地帯となっていた。あたりの風景をしっかりと瞼に焼き付け、私たちはパーク終焉の地に別れを告げたのだった。 (第5回・終) ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は5月16日(火)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬ ●中高年の「元気が出るページ」‥TOP PAGE→→→→→→→→→→→→→→→● |