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ニュー・ブッサから南下するに従い、いままでにないトタン屋根の家並みが目立ち、道路も広く舗装されていた。だがその沿道には点々とトラック、乗用車、タンクローリーなどが横転し無惨に赤錆たままの姿をさらし、事故車のあまりにも多いことに驚かされた。
「この国では一度故障すれば放置するよりしようがないのだ」 と誰かがつぶやいていたが、運転のルールもないような目茶目茶な暴走運転で、凄いスピードで土埃を巻き上げながら走る対向車に、私たちは首をすくめ、 「ここまできて交通事故などにどうか巻き込まれませんように」 と、ひたすら祈る思いであった。この時の写真を見ると、帽子を目深にかぶりサングラスで幅広く手ぬぐいのマスクをして、一同まるでギャング団のようないでたちである。 そろそろ日が暮れ始めたが車内はまだ36度もの暑さ、周囲は次第にジャングルの様相を帯び、土の色や家の構造も変わってきた。沿道の所々には学校があり、子供たちは一様に紺やグリーンの制服を着ていて、教育に力を入れていることが伺えるのであった。この森林地帯に古くから伝わるイフエ文明の地域に、いよいよ入ってきたのだろうか。 だがその夜のイフエのホテルの私たちの部屋はまったく酷いものだった。物置部屋同然で、窓もなく締め切ったら密室となり、蚊取線香の煙りで息苦しくなった。夜中に隣にあった食堂に逃げ出し、椅子を並べて横になりひたすら明るくなるのを待った。 寝苦しい一夜がやっと明けてこの日は、森本氏からすでにレクチャーを受けていた私たち待望のイフエ、ベニン文明の探訪である。 イフエ博物館や、ベニン博物館で代表的な作品といわれるブロンズ、テラコッタ、木製浮彫り、の数々を目にすることができた感動は忘れ難い。いままで知らなかったブラック・アフリカの造形美術の素晴らしさにすっかり魅了されてしまった。 青銅のオニ像は12〜15世紀のイフエ文明最盛期のものという。オニ(王)の宮廷を中心に展開したヨルバ族の青銅文明は、ベニン王国で更に技術が加わって完成されたというが「王母の頭像」は傑作の1つだそうである。またオニの王宮を飾った木製浮彫りの精緻を極めた技術や、洗練されたリアリスティックなテラコッタ製の人頭。象牙の彫刻や、伝統的な民族の仮面など、豊かな表現の世界はいつまでも私たちを虜にして放さなかった。 1月11日ベニン・シティからラゴスまでは500キロのドライブになるという。早朝ホテルを出発し1時間ばかり走ったところで、ニジェール川探検最後の時を迎えた。 「ニジェールは出口のない大河と思われていましたが、河口はいくつもの砂州をつくり毛細血管のようになってベニン湾に注いでいるのです。私たちはここまで大体ニジェール川に沿うように走って来ましたが、ここからニジェール川と別れてラゴスへの道を行きます」 思いなしか森本氏の声も潤みがちであった。ニジェール川を背に一同で記念写真を撮った後、私は川岸に咲いていた可憐な花をカメラにおさめ、その小さな白い花を2つ3つ摘みとってノートに挟み、ニジェール川との別れのひそかな記念として持ち帰ったのだった。
ニアメへの途中のパンク修理で日程が1日ずれたため、ビアフラの州都ポートハーコートに行くのが割愛されたのは残念であった。1967年から1970年にかけて起こったビアフラ戦争は、部族間の内戦だったというが、多数の餓死者をだし、世界中の人々の目をナイジェリアに向けさせた。当時、人道的な立場から世界中に大きな反響を呼んだビアフラ戦争だが、私にとってここに来てみるまでは、遥か彼方の遠い世界の出来事という認識でしかなかった。 いまなお、アフリカ各地で部族間の対立による痛ましい戦争は続いている。1日も早く闘いのない平和な世界を、と願わずにはいられなかった。 ラゴスの市内に入ったのは夕方だった。全くの近代都市で道路という道路は物凄い交通ラッシュだった。ホリデイ・イン・ホテルの玄関まで私たちを送り届けてくれたモーリスと3人の運転手は、この状況におそれをなして直ちにニアメに引き返すという。せめて夕食でもと皆の引き止めるのも固辞して、彼等は脱兎のように帰路を急いだ。 若くてスタイリストのモーリスは、はじめは頼りなくみえたが意外に強靱な意思の持ち主で、予想外の事態にも適切な判断を下し柔軟な対応を示してくれた。運転手のリーダーのカマラは、がっしりとした体格も頼もしく、すべてに慎重で我々の信頼に十分応えてくれた。2号車のハマドゥは瓢きんで「ポリスいるよ」などと、カメラに夢中になる私たちを脅かして面白がったりするが、3人の子供のために、キャンディを1つも口にしないでポケットにしまいこんでいるよきパパであった。ついに名前を覚えなかったが3号車の一番若い運転手は無口でいつもにこにことこまめに立ち働いてくれた。彼等のよきチームワークのお陰で私たちは無事ここまで来ることができたのだ。それぞれにプレゼントを贈り、無事を祈って見送った。 ラゴスで鎌内さんが逢った日本の商社マンたちは、私たちの日程を聞いてから、 「ナイジェリアの果てから道中何事もなく、よくもラゴスまで来られたものですね!」 と異口同音に驚いていたそうである。トンブクトゥで野営道具を置いてくるはめになり、野宿できなくなったのは結果的には幸であったのだろうか。治安のよくないこの国で何の危険にも遭遇せず、ここまでこられた私たちを「奇跡」と見る人々の話を聞いてから、今更のように背筋が寒くなる思いがした。 アフリカ最後の夜、ホテルで乾杯をあげ夕食をとりながら、これからの行動について中川氏の指示を受けて些か緊張した。ホテルからタクシー6台に分かれてエアポートに行く。もうモーリスも運転手もいないので荷物は自分たちで運ばなければならないのだ。 私と朽木さんの2人で乗ったタクシーが空港の駐車場につくやいなや、たちまち若い男たちに車を取り囲まれてしまった。窓を叩いて自分に荷物を持たせろと執拗に騒ぐ男たち、まわりには私たちの仲間は誰も見当たらず、運転手は車を降りて中川氏を探しに行ってしまった。 朽木さんはもう泣き声で私にかじりつくばかり、私とてまったく生きた気がしなかったが、彼等を無視してじっと待つしかなかった。やっと運転手が中川氏を伴って戻ってきた時は、地獄で仏とはこのことかと思わず涙が出てきてしまった。あとから聞いたところによると、他の人たちも皆同様に恐ろしい思いをしていたということだった。 空港への入り口でもひどかった。次から次へと人が集まって来るのに、ドアは1つしか開けず1人ずつしか通そうとしない。やっと中に入ってからも出国手続き、所持金審査など、すべて中川氏がつきっきりで交渉し、それも3、4人ごとにストップをかけられて、また交渉のやり直しとなるのだった。よくはわからなかったが何事も袖の下次第ということなのだろうか。 また飛行機搭乗口に行き着くまでの凄まじさといったらなかった。私は人と人の間を夢中ですりぬけようとしてショルダーバッグの紐が切れ、危うく抱え込んで事なきを得たが、村田さんはご主人の御土産にと買った杖が折れてしまったと嘆いていた。 機上の人となってからもまだ緊張感から開放されるものではなかった。予定の時間を大幅におくれ午前1時過ぎに、やっとエンジンがかかり離陸が始まった。悪夢のようなラゴス脱出劇から覚めやらぬまま、よくぞ全員無事で帰国の途につくとこができたと、万感胸に迫るものを覚えたのであった。 さすがの森本先生も「ナイジェリアは2度とごめんだ」と言われていた。 成田空港では意外にも、トンブクトゥに置いてきた荷物がそっくり私たちを待っていたのである。これも「最後には辻褄があうアフリカ」ということなのだろうか。 (第6回・終) ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は5月23日(火)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
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