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「まあー、またアフリカに行くの」 決して若くもなく、何の研究家でもない私を知っている友だちは言う。 「物好きねー寝袋だの食糧だの持参で、大変な思いをしによく行くわね。私はお金をもらってもそんな旅行はいやだわ」 と、呆れた声を出した。暮れからお正月にかけて3週間あまりのアフリカ行きであったが、黙って出掛けるわけにもいかず電話をかけたのだった。だが、何と言われようと、思われようと、行ったものでなければ分からないのだ。誰かが書いていたが、 「アフリカには毒がある。一度その毒に触れたものは、逃れられないで中毒する」 確かに私はその毒に触れ、さらに、 「旅の魅力とは、その苦しさにある。旅が愉しいのは、旅が苦しいからなのだ。ここに旅の逆説がある──つまり苦しい旅こそ愉しい旅──だから最悪の旅こそ最良の旅である」 という旅の哲学を持つ、同行講師森本哲郎氏への中毒にも罹ってしまったらしい。それも相当な重症度で。 実際、3年前のアフリカの旅は苦しい大変な旅であった。スコットランドの探検家マンゴ・パークの、想像を絶するような苦難の跡を記した日記「ニジェール探検行」の後を辿る、ということであったからもとより覚悟はしていたが。 再びの「ニジェール・サハラ探検行」は、森本氏のアフリカへの見果てぬ夢、が駆り立てたものといえるだろう。この前、訪ねることができず心を残してきたサンサンディング(パークがそこからニジェール川を死に向かって出帆したところ)を訪れ、また、サハラ砂漠を駱駝によって塩が運ばれるキャラバン・ルートを辿るということである。そしてさらに、マリの秘境バンディアガラの断崖に住む、原始山岳民族のドゴン部落を探訪することも日程の中に組まれていた。 この、厳しい旅になるであろうサハラ行きは、かつて森本氏と旅を共にした者たちの間にだけ計画が伝わったのだが、アフガニスタン・パキスタンの旅で一緒だった安田礼子さんから電話がかかってきた。 「今度のサハラ砂漠探検行にはどうしても参加したいので、主人に納得してもらうため一度会いにきて欲しい」 と。前回の探検行の経験者である私が一緒だと言えば、ご主人も安心して許されるだろうとの深謀遠慮からと察しられた。だが、川崎のお宅に意気込んでお目にかかりに行った私の出番は全く不要だった。奥様への理解が深く、物分かりのよい旦那さまのお許しは既に出ていた。私より年長だがいつも溌剌として、好奇心も探求心も旺盛で、写真もプロ級の腕前を持つ安田さんが行かれるなんて、喜びの声を挙げたのは私の方だった。この前の朽木照子さんといい、今度もまたよい道連れに恵まれ本当に幸せであった。 確定的な段階になって送られてきた日程表を見て驚いた。往路はニューヨークへ飛んで一泊の後西アフリカのセネガル、ダカール着であり、復路は北アフリカ、アルジェリアのアルジェからパリに飛び、フランクフルト経由での帰国となっていた。日本を中心にした地図で見れば、西と東と全然反対方向ではないか。だが、地球儀で見るとアフリカへは、どちら回りにしても同じような距離だとわかったが、図らずも地球を一周することにもなる旅であった。 1981年12月23日19時成田発、ニューヨークまでノン・ストップのパンナムに乗り込んだ。一行は講師の森本哲郎氏のほか参加者16人。その中には前回の探検行でも一緒だった仙台の布山悦子さんと、大阪の久保康子さんの顔も見えた。共にアフリカ中毒組のようである。そして今度もベテランの中川氏が添乗で心強かった。 一眠りして時計を見れば4時50分、窓外はすっかり明け渡って明るかった。 「右側の窓に日が差しているけど、あれは夕日なのね」 安田さんに言われて自分の迂闊さに気が付いた。何時の間にか日付変更線を越えていて、1日後戻りしていたのだった。傍らの森本氏は深い眠りの中である。 「先生は留守にする間のお仕事で忙しくて、空港にきてから荷物を整えられたのですよ」 と中川氏から聞いたが、見送りにきていた秘書の林田さんと一緒に、売店でいろいろ買い物をされていた森本先生だった。旅慣れた方は違うものである。 ニューヨークのシェラトン・ホテルに一泊し、クリスマス・イブで賑わうニューヨークを後にした。アフリカに向うパンナムは黒人の家族連れで満席、大きな話し声があちこちと飛び交い賑やかなことこの上なしである。ダカールまでは約6時間であり、パリからと大差ないのだった。 ニューヨークとの時差は4時間、早朝の空港に下り立てば一足飛びに28度という夏の暑さで、ブーゲンビリアの燃えるような赤が目に飛び込んできた。ダカールの空港は新装されて見違えるほど広くきれいになっていた。先程から同じ荷物が何回もベルトコンベヤーに乗って回っているが、私たち何人かの荷物がいつまでたっても出てこない。しびれを切らして奥を覗いた人が大きな声を上げた。 「ここにはもう何も荷物がありませんよ!」 パンナムはケニアに向けてすでに飛び立ってしまっていた。驚いた中川氏と現地のガイドが空港事務局に行って調べたところ、私たち一行の荷物のうち13個が、何の間違いからかケニアのナイロビまで行ってしまったことがわかった。仕方なく折り返しの便で、私たちのダカール滞在中に届くようにするとの約束を取り付け、出てきただけの荷物を車に積んでやっとホテルに向った。旅行社の荷物の大半のほか6人が被害者で、私の寝袋や食糧を入れたバックもその中に入っていた。スーツケースの出てこなかった方たちは着替えもなく、暫くは皆の助け合いで凌ぐことになったのだが、アフリカ上陸一歩からのとんだハプニングであった。 テランガホテルはこの前泊まったメリジャンホテルと同様、高層建築の立派なホテルで、9階の私の部屋の窓からは大西洋が望まれ、3年前のことが懐かしく思い出された。
(第7回・終) ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は6月6日(火)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
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