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昨夜遅くダカールのホテルに戻ったのだが、私たちの期待に反して荷物は届いていなかった。中川氏は徹夜同然で、パンナムからの連絡を待っていたというが、出発間際になっても連絡は入らなかった。今日は11時半の飛行機でマリのバマコまで飛ばなければならない。ギリギリまで待っていたが仕方無く、バマコへの連絡を頼んでホテルを後にした。 私たちの乗った便はバマコ直行ではなく、シェラレオネのフリータウン、リベリアのモンロビア経由であった。いままで知らなかった西アフリカの国に下り立って、空港で記念のお土産など買ったりして、この思いがけない寄り道を楽しんだ。 因みに、帰ってから調べて見た所によると、シェラレオネは16世紀からイギリスの支配下にあり、奴隷貿易の基地となっていたが、1787年、北アメリカの解放奴隷が移住してフリータウンを建設した……イギリスの植民地から保護領となり、1961年に独立した共和国である。リベリアは1822年アメリカからの解放奴隷の入植者が、1847年に独立を宣言してつくった共和国で、入植者の子孫であるアメリコ・リベリアンによる支配体制が続いたが、1980年非アメリカ系のクーデターによりその支配体制を終わらせた。対外的には独立以来一貫して親米路線をとっている。(アフリカハンドブック 講談社)アメリカの解放奴隷による独立国があることを、ここで私ははじめて知った。 ダカールから6時間の空の旅を経てバマコに到着し、3年前には目にすることもなかった、高層建築、ニジェール川沿いに建てられた15階建てのラミティエ・ホテルに入った。森本氏はじめ再度の訪問者である何人かは、マリのあまりにも早い近代化に驚きの声をあげた。
「この人はグリオといって、吟遊詩人のような人……古くは王様などの傍らにはべって、王様を褒めたたえる言葉を入れて歌を歌っていたのだ」 と森本氏の解説があったが、私たちのテーブルにきた時、安田さんがコインを渡すと名前を尋ね、歌を歌いながら、 「ヤシュダ……ジャポネ、ジャポネ、ジャポネ……ヤシュダ」 と、どうやら安田さんを褒めたたえる言葉?を入れて歌っているようだった。 朝9時出発の予定が、パンナムからの連絡は依然入らず、中川氏は電話の前を離れられなかった。出発がかなり遅れそうなので、私はニジェール川の洗濯風景が見たくて、若いTさんとYさんを誘って外へ出た。道端でバナナを揚げて売っているのも、町の中を行き交う人々の様子も、3年前と少しも変わっていなかった。──ニジェール川で洗濯する活気に溢れた様子も、色とりどりの布が河原に広げて干されているのも──それを眺めているうち、まるで私は3年前にタイムスリップして、ここに立っているような気がしてきてならなかった。
結局ホテルで昼食を摂り、4時近くになった頃やっと電話が入った。ナイロビに行ってしまった荷物は私たちの後を追いかけているらしいが、ここには間に合いそうもないことが分かって一同がっかりした。 おそくなったが、日程に従って先ずは出発となった。マリでの今日からのガイドはコネティ・ママディと言い、この暑いのに茶色の長袖のとっくりセーターを着た青年だった。 車はこの前の時のローリーとは大違い、小型のトラックを改造したようなもので、窓には窓ガラスがなく、椅子は木のベンチで向かい合わせに腰掛けて、乗り降りするのは後ろのドアからなのである。 今日の予定地セグーは、この前のニジェール探検行の時、私がはじめて寝袋で過ごした懐かしい場所だった。日程表には「探検家マンゴパークが、苦労の末やっと岸辺にたどり着いた、ニジェール川を見る。セグー泊」となっていたが、今セグーには大きな市が立っていて、私たちの泊まるところが取れなかったので、マルカラまで行って泊まることになったという。
セグーからニジェール川の少し下流に、ニジェール川総合開発計画の一環として、マルカラダムが造られ、この灌漑設備によってこの辺り一帯は、マリの穀倉地帯となっているそうである。そのマルカラダム建設の時に、政府が建てた作業員用の宿舎が、いまはホテルとなっていて、そこに2泊するのであった。サンサンディングに近いというのが嬉しかった。 赤茶色の土で出来た円筒形の建物の上に、草屋根を乗せた小屋で、とてもホテルとは言えそうもなかったが、その1つに安田さん、渡辺さんと私の3人が割り当てられた。中には大きなダブルベッドが1つあるだけ、寝袋のある安田さんが土間に寝る羽目になってしまった。
寝苦しい一夜であった。外に出てみると、ホテル?の裏手ではまだ暗い中で、薪を焚いて朝餉の支度をしている若い夫婦がいた。「おはよう!」と声を掛けて写真を撮らせてもらった。 (第2章 第4回/終) ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は6月27日(火)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
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