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モプチから南東にサバンナ地帯を80キロほど行くとバンディアガラである。ここから更に奥のサンガにかけて標高500メートル前後の山地は、バンディアガラ断崖と呼ばれる険しい断崖の秘境で、断崖の上の台地と下の平原と、またその断崖にへばりつくようにして、家や畑を作って住む原始山岳民族がいる。そのドゴン族を尋ねるのだが、秘境といわれる集落に行くには、岩だらけの狭苦しい道をかなりの道程で歩くしかないということだった。 サンガに近ずくにつれ石ころだらけの凄い悪路となり、時には車のシートから飛び上がって天井に頭をぶつけ「あっ!痛い!」と、大きな声が上がったりした。途中にある何か所かの検問所ごとに思わぬ時間をとられて、夕暮れの迫る頃やっとサンガのキャンプメント(公営簡易宿泊所)に到着した。 先客のヨーロッパ人らしい青年が数人いたが、幸い私たちも全員宿泊できるということでほっとした。夕食まで大分時間がかかるという。部屋に入っても電気はなし、外はかなり冷え冷えしていたが、月明りで明るい庭先に自然と皆が集まった。 ここで“安倍川餅”とお抹茶という、思いがけない御馳走に預かることになって感激した。サハラ砂漠で“おうす”を点てたいという風流な夢を持った安田さんのお陰である。その夢を実現させるべく息子さんが持たせてくれた携帯燃料で、コッヘルにお湯を沸かして、お茶碗ならぬアルミの小さなコップで点てられたお抹茶が、今日1日のトラブルも疲れもすっかり取り去り、優雅な気分を味わわせてくれた。また、1口づつ頂いた安倍川餅の黄な粉の香りに、遥かな日本のお正月を偲ぶことができて嬉しかった。 今日は1月2日。いつの間に持っていらしたのだろうか、森本先生がポータブルの電子ピアノで“お正月の歌”を弾き出された。思わず皆で口ずさむうちに、曲は“月の砂漠”から大正、昭和の歌のメドレーとなっていった。月光に照らし出された幻想的なサンガの夜。昔懐かしいメロディはいやがうえにも、私たちをセンチメンタルにし、異国の空の下にこうして新しい年を迎えた喜びを、共有しあったことも含めて、忘れ得ぬ夜のひとときとなった。 やがて山小屋風の食堂で、ランプの灯のもとにおそい夕食をとった。思いがけずよく冷えたビールに大喜びで乾杯、スライスした玉葱やトマトの上に、缶詰のオイルサーモンがたっぷりのった素朴な食事も美味しかった。 「お休みなさい!」それぞれ渡されたランプを手にして外へでると、おもわず身震いするような冷気が迫り、月の光の中にあたりは静まり返っていた。部屋は殺風景だったが、蚊帳のあるベッドで快く眠れ、すがすがしい朝を迎えた。 朝食後2つのコースが示され、自分で選んだコースによって出発することになった。好奇心の強い所も共通の安田さんと私は、最も奥深い急斜面にあるという山岳民族の代表的なビレッジ、イレリー村探訪のグランドツアーの方を選んだ。若手の男性4人と元気な吉田老人、ガイドのママディや運転手のアブール、助手のオスマンというメンバーだった。 「手ぶらで歩かないと大変だからポーターを頼みなさい。その方が楽だから」 との森本氏の助言もあって安田さんと私は少年のポーターを伴うことにした。彼等はとても親切で険しい岩場でカメラを持ったり、引っ張り上げてくれたり、急斜面を降りる時には前に立って安全な足場を探してくれたりした。岩だらけの急角度の崖を上ったり下ったり、彼等のエスコートがなかったら、とても若い人たちに伍して歩ける場所ではなかった。
「この付近には広い範囲で56の村があって、平均して100人から200人の人が集落をつくって住んでいる」 現地のガイドのフランス語の説明を、大学生の山本君が通訳してくれる。100メートル以上あると思われる切り立った断崖がそそり立ち、その中腹には小さな洞穴が無数に見えた。 バンディアガラの断崖洞穴は500年位前に、先住民のピグミー族が住んでいた跡だそうである。はじめバマコ付近にいたドゴン族が、イスラム化したマンディンゴ族に追われ、次第にピグミー族を追い出してここに住みつくようになったのだという。 断崖の下から2、30メートルのところに幾つも見られる洞穴は、今ではドゴン族の死者を安置する場所となっている。中腹から2本のロープが下がっているのが見えたが、死者が出ると何人かの若者があそこまで登り、白布で巻いた死体を2本の木で固定して、あのロープで吊り上げて洞穴に置くのだという。風葬とでも言うのだろうか。
険しく狭い岩の道を上ったり、下ったりして、やがて出た場所は「あっ!」と、声を上げるような絶景だった。遥かに広がる草原、眼下の断崖の急斜面には、小人でも住むかのような小さな家々がへばりつくように固まっていた。粘土の平屋根の小さな住居の間に、トンガリ帽子のような草屋根をのせた穀倉が入り交じり、まるでおとぎ話の小人の国に紛れ込んだよう!私たちは夢中になってカメラのシャッターを切っていた。
断崖に沿った細い道を歩いて行くと、断崖の窪みのところに、小さな瓢箪で作られた柄杓が、幾つも重なって置かれているのを見掛けた。また別な場所では、機織りの時使ったおさが何本も置かれていた。柄杓は女の人が使っていたものであり、おさは男の人が機織りで使っていたもので、これで亡くなった人の数が分かるのだという。 集落の間の広場に沢山の男の人が集まっているのを見掛けた。円陣の真中に何かこんもりと盛り上げられ、真中に1本の棒が立っていた。私がカメラを向けると、たちまち大きな声が飛び、手を振り上げ追い払われてしまった。後から来たガイドから、お葬式をしているのだと教えられて、知らぬこととはいえ申し訳なく「失礼しました」と、そちらに向かって頭を下げた。こういうことは男の人だけで行うのか、女の人の姿は一人も見えなかった。 この少し前だったが歩いている途中で、悲痛な泣き声のようなものが風に乗って聞こえてきた。村で死んだ人が出たのだとガイドがいったが、女の人は家の中で泣くだけなのだろうか。 イレリー部落はサンガの奥の方にある大きな集落で、一番山岳民族らしい集落だそうである。その村の中に変わった建物を見た。「8つ柱の集会所」といって、ドゴンの8人の始祖を意味する8本の低い柱があり、厚く積み上げられた藁の屋根に覆われていた。村に何か問題が起きた時、村の長老が集まって協議する場所だそうだが、男の人がやっと坐れるほどの低い天井は、協議の途中で立ち上がって暴力など振うことができないように、敢えて低く作られているのだという。すべて話し合いで解決しようという知恵が働いているのだろうか。やっと一人通れるような岩の道で、頭の上に大きな重そうな洗濯物を入れた容器などのせた女達に出会った。はあはあ喘ぎながら歩く私たちに、いつでも彼女たちの方で身をずらして道を開けてくれるのだった。
水汲みなどは女の人の仕事なのだというが、歩くのでさえ大変なこんな道を、重たい水瓶を頭に乗せて、1日どれ程上り下りするのだろう。私は国連女性会議で第3世界の女性の代表から発言されたという、 「女の人が水汲みの重労働から解放されない限り、男女平等はあり得ない」 厳しい状況が実感を伴って思われるのだった。 台地の上の畑で、数人の男女が何か青いものを杵でついていた。近付いてみると玉葱の青い葉っぱのところで、 「これをお団子に丸めて日に干して、スープの材料としてモプチなどに出荷している。彼らにとっては貴重な換金作物なのである」 と、ママディが傍らに来て教えてくれた。今日は厳しい中川氏がいないので、ママディはすっかりリラックスしていた。
バナニ、スペゲ、上イレリー、下イレリーと、時にはもう体力の限界だと思ったりしながらも、どうにか若い人たちの中に入って必死で歩いて来た秘境だった。 この日のお昼に、お互いの健闘?を称え、安田さんと乾杯を挙げたビールは、格別に美味しかった。 (第2章 第7回/終) ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は7月18日(火)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
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