|
||||||||
| ニジェールのような大河に“慕情を寄せる”などというのは、いささか面映ゆくおこがましい気もするが、今度のギニア行きを私に決意させたものは、ニジェール川への深い思い入れにほかならなかった。 ニジェール川を現地の人々はジョリバ(大きな川)と呼ぶ。全長約4200キロメートル、ギニアのフータ・ジャロン高原に発し、西アフリカを大きく湾曲してゆったりと流れ、河口近くでは巨大なデルタを構成しながらギニア湾に注ぐと言われ、アフリカではナイル、コンゴに次ぐ大河である。かつて謎の川とされていたが、今から200年程前に、上流から船による探検行を起こし、川を下る途中で亡くなったマンゴ・パークや、その後をたどってギニア湾まで探検したリチャード・ランダーにより、ニジェール川の全体が知られるようになったという。 マンゴ・パークが残したニジェール川探検日記を、翻訳出版された森本哲郎氏に同行して、その苦難の旅に出たのが、ニジェール川との初めての出会いで10年前のことであった。 やっとチャーターした穀物運搬船の雑穀袋の上に、寝袋で過ごした4日間、私たちは川の水を汲み上げて、インスタントラーメンやきつねどんべえをつくって食べたりした。そしてまた、ニジェール川沿いにランドクルーザーで走り、マンゴ・パーク終焉の地ブッサで、折り鶴を流して彼を偲んだが、マリ、ニジェール、ナイジェリアと、国境線を越えるたびに経験する大変な思いなど、現代の私たちにとっても苦難の多い道であった。 それから3年後、前回行くことのできなかったサンサンディング(パークが船を仕立て出発したところ)を訪れるという森本氏に再び同行し、図らずもまたニジェール川畔に立つことができた。懐かしいバマコの川岸の活気溢れる洗濯風景。サンサンディングの落日が真っ赤に染める川で、静かに水浴する母と子のシルエット、その神秘的な美しさに息をつめて見入ってしまった。素朴なカヌーが流れるように川面を行く、そこにはたいてい父と子の姿があるのだった。私たちから失われたものへの回帰の情がふつふつとたぎり、ニジェール川の悠々とした流れの岸に立って、胸が熱くなるのを覚えたのである。 ニジェール川源流地帯探訪の夢がふくれ、旅行計画が持ち上がったのは夏頃からのことだった。1958年に「豊かさの中の隷属よりも貧困の中の自由」を選んだセク・トーレ大統領のもとに、フランスからの独立を果たし、社会主義体制を確立したギニアには、今まで観光のための入国ビザは認められていなかった。 10数年前ギニア鉄道計画の測量隊として日本から派遣され、何年間かギニアで暮らしてきた方々が、今年の7月に『ギニアの風』という写真集を出版した。その「ギニアの会」主催の出版記念パーティーに出席された、駐日ギニア共和国特命全権大使のベンガリ・ダボ氏が、日本での任務を終え帰国されてから、今回の受け入れ計画が図られたのだった。 ニジェール川といえば森本先生、と初めから氏の同行を期待していた私たちだったが、 「時期をずらすことは無理ですか。森本先生がどうしても都合がつかないそうです」 10月に入って旅行社の中川氏からこんな連絡を受けた時は、全く思いもかけないことと戸惑ってしまった。すでに日程は現地一任で着々進行中と、交渉の責任者「ギニアの会」のS氏から聞いていた。今回の参加者募集に一役かっていた私自身もそうだが、勤めを持っている人にとって、2週間にも及ぶ休暇は、年末年始にかけてしか取り難いことである。 「いまさら変更は難しいと思われますので、旅行の手配は予定どうり進めてください。森本先生が行かれないのは本当に残念なのですが……」 かくして1987年12月24日より、14日間に亘るギニアツアーが決行されることになった。日本人のツアーとしては私たちが初めてだそうで、異例のことであった。 成田を発ってパリへ一泊の後、ベルギーのブリュッセルからの直行便で、ギニアの首都コナクリまで6時間足らずで到着した。夕闇に包まれた飛行場には、タラップのところまでダボ氏ほか数人が出迎えてくださった。一行が特別室に案内されて驚いたのは、テレビとラジオのインタビューが待ち構えていたことだった。私たちが見守る中で団長の若いS氏は、すっかり緊張した面持ちで応じたが、その間に通関手続きや、入国審査などもすべて済まされたらしく、そのままコナクリ市内の近代的で立派な、ホテル・アンデパンダンスに案内されたのである。
「まるで国賓並みね」 「日本人は初めてというから、私たちもきちんとしなければね」 男性3人、女性9人の一行12人。予期しない待遇にこんなことをささやき交わした。 ギニア滞在中は、ダボ氏の陣頭指揮で全てが運ばれた。外務省を表敬訪問した時には一室が用意されていて、外務大臣から、 「日本とのこれからの友好を深く願っている。日本からのツアーも歓迎し、ダボ氏にその方面の仕事を任せたい」 との熱いメッセージを送られたのだった。 西アフリカの水瓶といわれるギニアは、農業が盛んで米、フォニオ(粟)、落花生、野菜が栽培され、オレンジ、マンゴー、バナナなどの果物も豊富であった。地形的には大西洋に面した海岸ギニア、フータ・ジャロン山塊を中心とした中部ギニア、比較的平らな台地で形成される高地ギニア、深奥部の森林を中心とした森林ギニアに分けられるという。 私の今回のギニア訪問の一番の目的は、フータ・ジャロン高原にニジェール川の源流を探るということにあった。現地についてから渡された日程表を見ると、幸い希望していたマムーからピタ、ダラバ、など標高1000メートルを越すフータ・ジャロン山塊の高原地帯を回ることが組み込まれていて、かねての念願が果たされるという期待に心が躍った。 コナクリのホテルに2泊し市内や近郊を案内された後、いよいよ日程に従っての出発である。ルノーの小型バスの屋根の上に、私たちの荷物が積み上げられシートですっぽり覆われていた。いざ出発という所でまたびっくり、ダボ氏のほかに、通訳としてコナクリ大学の英語教授アブドラ・バー氏、そのうえラジオ・テレビジョンの放送記者ベン・バリー氏が同行し、私たちの旅の様子が毎日ラジオで放送されるという。運転手、助手、車の修理技師を加えると、ギニア側から6人もの人が私たちのツアーのために動員されたのである。
県ごとにある検問所でピー、ピーと笛が鳴っても、助手席にいるダボ氏がちょっと手を挙げただけで無事通過。場所によって県知事自らが車を走らせて先導してくれることもあった。私たちはその度に「国賓並み待遇」と受け止めて、感激の声を上げたり手を振って応えたりした。だが、国賓並み待遇で困ったこともある。県が変わるごとに県知事への表敬訪問が行われたが、食事の招待を受けると半日以上も費やすハメとなる。そのアフリカ時間の皺寄せは私たちの睡眠時間に関わって来るのであった。 (ニジェール川源流地帯を行く 第1回/終) ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は8月25日(金)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
|
||||||||