◇西アフリカ・ニジェール川探検紀行◇
(1987年12月24日から14日間)

異郷での新年『ハッピー・ニューイヤー!』
 昨夜は楽しいパーティーだった。食堂の隅にはまだドラムやアンプ、アフリカ独特の細長い太鼓、ギニアの国旗を表す3色の長い幕などがパーティーの名残を止めている。あれはプロの楽団だったのだろうか、エレキギターの狂おしいばかりの演奏、熱唱する歌手のダイナミックな歌声に場内は湧き立った。次々に集まってきたのはこの辺の上流階級の人々なのだろう、知事はコバルトブルーの民族衣装だったが、ほかの男性はきちんとした背広姿、夫人たちはヨーリッパスタイルのワンピースなどで美しく着飾り、優雅にダンスに興じていた。私たちも代わる代わるダボ氏、バー氏、バリー氏をパートナーに踊ったりして楽しい一時を過ごした。12時を合図に「ハッピー・ニューイヤー!」の声とともにクラッカーが飛び交い、シャンパンのグラスが上げられ、異郷での思いがけぬ年越しの夜をすごしたのであった。

 
歌って踊って祝う新年

 すがすがしい元旦の朝を迎えた。昨夜おそくまでパーティーが開かれていた食堂は、すっかりいつものように椅子テーブルが並べられていた。私たちは先ず新年を祝って「おめでとう!」の乾杯を上げ、改めて挨拶の言葉を交わしあった。
 朝食ののち、近隣の村長さんたちが新年の挨拶に集まるという県の集会所に案内された。色とりどりの民俗的な正装で集まってきた村長さんたちに、私たちはダボ氏から「日本からはるばるきたツアーの一行」と紹介された。そして県知事からはS氏に「ウラレ」というニックネーム(尊称?)が贈られ、一行中の最年長のHさんには、ダラバ製の皮のお盆がプレゼントされるという楽しい一幕もあった。忘れ難い思い出に残るファラナであった。
 ファラナから北へ110キロのダボラの町に着き、先ずは恒例の県知事への表敬訪問である。ここでもご招待の昼食の用意に時間がかかり、夕方になっての出発になってしまった。


 
ダボラにて

 ダボラはダボ氏の出生の地で、氏の曾祖父がこの地にきて以来、ここをダボラと呼ぶようになったそうである。ダボ氏の弟さんが真っ赤なコロナで途中まで出迎えに来られていた。私たちのために夕食の御馳走を準備し、土地の古老の楽器演奏まで用意して、大勢の人が歓迎のため待っていてくださったのだ。こんなこととは少しも知らなかった私たちは、またまたアフリカ時間に翻弄される悲哀を味わった。知事邸での昼食が夕方になってしまったためである。テーブルにいっぱい並べられたご馳走を一口いただき、広場に集まった人々の中に坐って、盲目の古老の奏でる一節に耳を傾けた。皆さんの好意に感謝し心を残しながら、慌ただしく出発しなければならなかった。この夜の宿泊地クルッサまでは走行距離が164キロもあるという。
 途中テンキソー川にかかる橋が壊れていて、歩いて渡ったりするパプニングもあり、クルッサに着いたのは夜遅く11時過ぎだった。県知事庁舎の前で私たちの車は暫く待たされた。ダボ氏が聞いてきた話では、新年の恩赦で政治犯の人たちを釈放する手続きに、時間がかかっているということだったが、どれほど多くの人が囚われていたのだろうか。
 クルッサは何か開発事業が進められているらしく、私たちの宿舎として2、3人ずつに割り当てられていたのは、一戸建ての真新しい近代的な建物で、広々とした敷地の中に同じような建物が幾棟も建てられていた。
 翌朝は早くからクルッサの県知事が案内に出向いてこられ、ニジェール川の港に案内された。かつては賑わいを極めていたという港の荷揚げ場は、川の水量が少なくなったため船の行き来もなくなり、経済的に大きな打撃を受けているという。川には鉄橋がかかり鉄道のレールが引かれていたが、今は村人の通り道として利用されるだけになってしまった。
 ニジェール川に沿った道を次もシギリまで155キロ走る。川の水面には白やピンクのスイレンの花が咲き、川岸には鮮やかな黄色のギニアアネモネ?などが見られた。焼き畑のあとには茸のような形をしたグロテスクなアリ塚が一面に広がっていた。
 ニジェール川の支流をフェリーボートで渡って間もなくシギリの街に入った。シギリはマリとの国境に近い、人口30万の緑濃い豊かな都市であった。私たちの日程は1日ずれてしまっていたため、シギリでの宿泊は取り止めとなり、マリの首都バマコまで走らなければならなかった。深夜に国境を越え、どうやらバマコのホテルに着いた時は明け方になっていた。 
 私にとっては3度目のバマコ訪問である。ホテルの10階にある私の部屋の窓から見下ろすニジェール川は、朝霧の中で流れるともなく帯のように見えた。10年前より、いやその後の7年前の時より、はるかにニジェール川の水量が減っているようであった。
「とうとうあなたに沿って源流地帯から、河口まで、3回もの旅をしてきてしまったのね」


 
バマコ。朝霧のニジェール川

 ニジェール川に向かって深い思いを込めて、そう語りかけずにはいられなかった。
 もしかしたら、森本哲郎氏がギニアに行かれるまでは「私だけの果たしたニジェール川探検行」と言えるのではないだろうか。(昭・63・4「文芸四季」9号)





ケ ン ケ レ バ 賛 歌

市場でケンケレバを売る少女

 アフリカ時間には時計が通用しない。いや、アフリカでの生活は、時間など超越しなければ過ごされないということなのだろうか。
 私たちはギニア9日間の滞在中、2回も予定したホテルに行き着けず、予期しない場所で泊まるハメに陥った。日本での分刻み、秒刻みの生活が身についている私たちは、始めは大分イライラしたが、次第に順応してしまって成り行きに身を任せるのだった。
 だが、最悪だったのはギニアでの最後の日のこと。マリとの国境近くの町シギリで、県知事より食事の招待を受けた。私たちは昼食をとっていなかったので、国境へ行く時間を気にしながらも辛抱強く待っていたが、食卓に御馳走がすっかり並んだのは夕方だった。そして食事が終わった頃にはもう暗くなってしまっていた。幹線道路でも雨季のたびに道路が流されてしまい、現地人でないと分かり難いからと、道案内をつけてくれることになった。それにも時間がとられてやっと出発。国境まですぐそこのように言われたが、アフリカ人にとって「近い」という感覚は私たちの想像を絶するような距離であって、国境に着いた時には夜もすっかり更けて、しんしんと寒さが身にしみてきた。
 出国、入国の手続きがやっと済んだ所で、マリ側から迎えに来ていた筈の車が、帰ってしまったことがわかり呆然とした。マリ側には深夜にもかかわらず、若い男たちが三々五々固まりあって、何となく薄気味悪い感じ。国境線をはさんで、今までと雰囲気が全然違うのであった。
 私たちの窮状を心配したダボ氏が交渉を重ねた結果、ギニアの人たちの好意が認められ、ギニアの車でマリのホテルまで送って貰えることになってほっとした。別れの挨拶を交わし、名残を惜しみあった人々と再び一緒になって、マリの首都バマコのホテル・アミティエに着いたのは、もう明け方であった。
 思えば相当な強行軍で、道中も悪路と土埃まみれの難行苦行だったが、年配者も健康を損なわず、誰ひとり苦情もあまり言わないで耐えられたのは、前駐日大使だったダボ氏を始め、ギニアの人々の並々ならぬ親切のお陰だと思う。また、
「ケンケレバのお陰よ」
 と、金沢の福島さんが主張するように、毎日ケンケレバティーを愛飲したお陰かも知れなかった。古くからアフリカの薬として、また、健康飲み物として伝わってきたというケンケレバを日常的に飲用しているこの地域には長寿者が多い。私たちが尋ねたダボ氏の実家のおばあさまも、高地ギニアの県知事の母上や叔母上も80何歳というお年で、きれいな派手な模様も布をまとい生き生きした様子で、家族の中心になっていられた。
「コーヒー?、ティー?」
 ホテルでの食事のたび、テーブルを回って尋ねるボーイに、
「ケンケレバ!」
「私もケンケレバ」
の声がかかると、我が意を得たりとばかりニコニコしながらたっぷりと注いでくれる。私たちも現地の人と同じように、コンデンスミルクや、蜂蜜を入れて甘くして飲んだ。夜おそく飲んでも眠れないことはなく、疲労の回復も確かに早いように感じられた。
 ケンケレバはアフリカのサバンナに自生する小喬木で、梅のような葉をつけた木がフタジャロン高原や、高地ギニアの方々で見かけられた。雨季の始めに新芽を吹き、強い日差しや雨季の強烈な雨にさらされて成長し、乾季になる頃収穫されるという。気を付けて見ると、どこのマルシェ(市場)にも、枝ごと乾燥したケンケレバの葉を束ねて売っているのが見られた。これを煎じるようにして飲むのだが、麦茶のようでくせがない。
 まだあまり知られていないが、いま日本でもこのケンケレバ茶を簡単に飲むことができる。ボンサンテ・ジャパンという会社がケンケレバの葉をギニアから輸入し、ティバッグにして売っている。ギニア出身のタレント、オスマン・サンコン氏をトレード・マークとし、これから本格的に製造販売を進めることが計画されているという。
 今回、私たちのツアーが大変優遇されたのも、このケンケレバの輸入・製造元の重要なボジションにある斎藤氏が、団長としてギニア側との交渉に当たられたからでもあった。
 1973年から75年にかけて、ギニア政府の鉄道建設事業計画に、日本から測量隊が派遣された。斎藤氏もこの時本部要員として参加し、ギニア各地に滞在した経験があるのだった。また、この測量プロジェクト派遣医師、熱帯医学者の田淵四郎氏は「ある熱帯医の記録」(中公新書)という著書を書かれ、その中にケンケレバについて詳しく述べられている。それによるとケンケレバはフランス薬物法典にも収録されていて、科学的な根拠も明らかであり、特に肝臓病や胃病に良いとのことである。
 田淵医師の具体的体験として書かれた中に「ケンケレバ、盲腸を治す、か」の一節があった。仕事中の日本人技術者が盲腸炎で苦しんでいるからとの連絡を受けて、手術覚悟で山を越えて往診に駆け付けたところ、ケンケレバをガブガブ飲んで寝ていたら楽になったと、ご本人が元気に出迎えたという。それ以来このキャンプの日本人はケンケレバの服用を欠かさなかったそうである。
 私はいまここにギニアへの熱い感謝を込めて、ケンケレバ賛歌を捧げたい。
(昭和・63・10「文芸四季」第11号)



(ニジェール川源流地帯を行く 終)

中高年の「元気が出るページ」‥TOP PAGE